太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

体験した空間をスマートフォンの受光素子で画像データに変換し続けること自体のフェチズム

ライフログのすすめ―人生の「すべて」をデジタルに記録する! (ハヤカワ新書juice)

街を歩いて写真に撮ること

 このブログには下手くそな写真とキャプションだけで構成されているような記事が多い。決して、それが良いと思っているわけじゃないのだけど、街歩きや食べ歩きそのものの体験を「主」とすると、どうしてもレポートは「従」になってしまう。

 デジタルカメラを持ち歩いていないし、メモも取ってない。iPhoneのカメラで瞬間瞬間を画像ファイルに撮っておくだけ。記事だってその画像を見て思い出したことをキャプションの様に付けたり、連想したことを書いているだけ。

街を画像データに変換してデジタルカメラに貯める趣味

 綺麗な写真を撮ったり、レポートありきで深めていくのも良い趣味だと思うけれど、その場での体験に比重が置かれてしまう。かといって、完全にその場だけを楽しんでいるなら写真なんて撮らないし、特に食事中の写真を嫌う人も多いのに写真に残して公開しているという事実もある。

 そのことについて、写真好きの人と話した時に「街を画像データに変換してデジタルカメラに貯めていくのが趣味」と言っていて、なんとなく腑に落ちた。

デジタルカメラに画像データを貯めていく趣味

 結局のところで、僕がやっているのは自炊厨が陥る際限のないデジタルスキャン作業のようなものなのだ。本を解体してスキャナに読み込ませる作業を続けたって、何度読むのかという話であるし、現在なら電子書籍だってある。

 だけど、本を解体してスキャナに読み込ませるという体験そのものによって手元から消えていく体験に対して永続化を試みること自体に趣味性を見出してしまうこともできる。「本をPDFに変換してハードディスクに貯めていくのが趣味」というわけだ。

記号に変換する作業そのものへのフェチズム

 カメラ性能もスキャナ性能もあがっていくが、あくまでその時に体験した空間を脳内で想起可能にするための「記号」のようなものに変換できれば十分なのだから、最低限の解像度でも構わないし、芸術性を磨こうとも思わない。20年前のアルバムの写真は随分と色褪せているから良いし、日記帳が名文で彩られていたら気持ちが悪い。

 自分が体験した空気や空間をスマートフォンの受光素子でデジタルデータに変換したり、キーボードでテキストデータに変換する作業にあまり価値はないのだけど、それ自体が楽しいのだから仕方がない。趣味の力点は変換作業そのものにある。