
これはゲームなのか?
渋谷サクラステージの404 Not Foundで2月11日から14日まで開催された「これはゲームなのか?展3」に足を運び、最終日のアフタートークにも参加してきた。
中学生の頃には Visual Basic で簡単なシューティングゲームを作ったりもしてたのだけど、高校生になるとオレオレゲームエンジン製作という沼にハマって、何も完成させられなくなってしまった。
以前にこんなことを書いた通り、学生時代はゲーム作りを趣味としていて、ゲームクリエーター専門学校の体験入学にまで足を運んだこともあったのだけど、結果的に「自分はゲーム関係で食っていくのは無理だろう」という諦観に着地し、それがいまだに職業エンジニアに対する敬遠に繋がっていたりもする。
そんななか、『ゲームフルデザイン 「やりたくなる」を生み出すゲーミフィケーションの進化』を読んだり、「ゲープレイワーキング」をコアアイディアとする『ギートステイト』に想いを馳せたりするなど、改めて「やりたくなる」の設計を考えていた折に出会ったのが本展だった。『これはゲームなのか?展3』はSHIBUYA GAMES WEEK 2026の公式プログラムとして19組の謎解き作家やボードゲームデザイナーやアーティストが「これはゲームなのか?」を各々の作品で問いかける展示会で、2019年の第2回から7年ぶりの開催になる。
『これはゲームなのか?展3』に行ってきました。相当面白かった。
— ニカイドウレンジ (@R_Nikaido) 2026年2月11日
2枚目、自分の財布をそこに置いて遊ぶゲーム
3枚目、ジャンケンの追加ルールが延々と足されていきどんどん複雑になるさまを眺める展示
4枚目、記憶喪失になった人と会話する何か
見たこともない、変な体験が目白押し pic.twitter.com/J8Z7X8uU71
こんな感じの展示。基本的には小さな区画で区切られた展示台があるのだけど、巨大な独房があったり、超大型スクリーンに解像度の低い人が映っていたりと独特な雰囲気。デジタルもアナログもある。
「Why」を手続きで伝習する迂遠なコミュニケーション
『これはゲームなのか?展3』
— itten-games (@itten_games) 2026年2月13日
3日目がスタートしています!
ittenのゲームデザイナー IKEも個人で出展しています!
『作法-伝習-』
作法とはなにか?ルールとはなにか?自身に問いかけながら、ぜひ体験してください!
渋谷サクラステージ 404 Not Foundで、
本日2/13(金)は20:30まで。#なのか展 pic.twitter.com/TlfrRjTdvC
個人的に一番印象に残ったのは『作法-伝習-』だ。枠に入った紙に書かれた作法を実行していくゲームプレイなのだが、無駄だと思う作法が書かれた紙を一枚取りはずことができる。すると、台座側の何れかには白紙で、何れかには「何故、その作法があるのか?」が書かれており、「何故」が明らかになったらそれを満たす新たな作法を考案して次のプレイヤーに渡していくルールになっている。
そもそも、UNIX コマンドは Why を除いた 4W1H を明示してコンピュータに処理を依頼するように設計されている。誰のユーザー権限として、いつ、どこを対象に、何をどのように実行するか。
sudo cp source.txt dest.txtというコマンドは、この 4W1H を簡潔に表現している。
これはまさに、What・When・Where・Who・Howの4W1Hになってしまった手続き型ゲームのメタにあるWhyを表現して伝承していく少し迂遠なコミュニケーションの試みとも言える。正直なところで3つの枠とも「何故」が書かれているのだろうなとは思って行儀悪く確かめてしまったのだけど、アフタートークで真の特殊勝利条件と書かれた「何故」の意図が明らかになって膝を打った。ここではネタバレをしないが、どこかでちゃんとした解説文を読みたい。
アフォーダンスがあればあるほどゲームっぽい
アフタートークでは他にも作家たち自身による振り返りが行われ、裏テーマや隠された勝利条件が明かされていく。展示作品の体験以上に、そこで浮上した「ゲームっぽさとは何か」「会期中のアップデートは善なのか」「ゲーム作家とプレイヤーの非対称性」といった議論が面白かった。イマーシブでプレイアブルだが、徹底攻略されることを殆んど期待しない——つまり少しは期待している迂遠で不器用なコミュニケーションに踏み込んでいく快楽。
特に示唆的だったのは「アフォーダンスがあればあるほどゲームっぽい」という発言だ。ちょうどいい高さの台があったら座りたくなるように、積みやすい石があれば積みたくなるし、差せる穴があれば電球を差したくなる。その「したくなる」がゲームっぽさの正体なのではないかという議論が展開された。
/
— これはゲームなのか?展 (@isthis_a_game) 2026年2月10日
これはゲームなのか?展3開催まであと1日!
\
いよいよ明日から開催!出展される19作品のうち1つをご紹介します!
タイトル: #河原にて
作家名: 佐々木隼(オインクゲームズ)@44gi… pic.twitter.com/YMTLKwJnmA
台に石が敷き詰められているだけの作品『河原にて』にはルールが一切書かれていない。にもかかわらず来場者は高く積もうとし、崩れたら悔しがり、隣の人と高さを比べ始めるゲームが自然発生する。アフタートークで明かされたのは、積みやすい形状の石が丹念に選定され、台の高さも手が届きやすいように調整されている点で明確にアフォーダンス設計がされていたということだ。
コンピューターゲームであれデジタルプロダクトであれ、優れた設計はユーザーに「設計されている」と感じさせない。ゲーミフィケーションという言葉が手垢にまみれて久しいが、本展で見たのは空間そのものに遊びの構造を埋め込む「ゲームフルデザイン」の実践のようにも感じた。
リヴァイアサンのゲームと刑法という見えないカード
これはゲームなのか?展に出展中の『リヴァイアサンのゲーム』はメタが回ってしまって対策カードが出たので展示は中止になりました。 #なのか展 https://t.co/1hMpSAHLwX pic.twitter.com/1ztwFpB94d
— タンサンあさと (@tansanasa) 2026年2月13日
最も議論を呼んだのは「リヴァイアサンのゲーム」だった。自分の財布を展示台に置いて会場から離れるという作品で、SNS上では「財布を置いて離れるゲーム」として切り取られて拡散し、主催側の懸念もあり展示は途中で中止になった。しかしアフタートークで作家が語った真意は異なる。財布を置かせたいのではなく、財布の上に置かれた「リヴァイアサンのカード」——窃盗罪の条文が記されたカード——こそが作品の核だった。
ゲームというルールの上位レイヤーとして法律というルールが常に存在しており、さらにその上にモラルや空気といった明文化されていないルールがある。普段は不可視のその構造を可視化しようとしていたのだ。作家は「スタバでパソコンを置いてトイレに行くのと構造は同じだ」と述べていたが、誰もスタバの責任を問わない。
SNS上でリヴァイアサンのカードの存在にほぼ触れられなかったという事実自体が、刑法は全員が認知しているルールだからこそ言及する必要がなかったことを逆説的に証明している。皮肉なのは、SNSの「空気」というカードが切られて展示が中止になったこと自体が、作品のテーマを完璧に体現してしまったことだろう。
ゲーム作家はルールを設定する安全圏にいて、プレイヤーだけがリスクを負う。ダークストアの作家が「中は触らない」と4日間決め、来場者の付箋で作品が上書きされていく様を見守り続けたのは、その非対称性を引き受けた覚悟の表れだった。本当に大事にしていた商品が壊されたりする懸念もあったし、中が荒れているという話も出てらしいのだけど、プレイヤーの創発を邪魔することは作者としてすべきではないと腹を括っていた。
ゲームだからこそ会期中にアップデートされる問題
アフタートークでは「会期中のアップデート」も議論された。イマーシブシアターの演者は客が入れ替わるたびに「蓄積」をゼロにリセットすることが大事だと語られる一方、ボードゲーム作家はプレイテストの知見でバランスを調整したくなるし、サービス精神としてアップデートせざるを得ない。客側の蓄積という観点においては、
これはコンピューターゲームのネットワーク対応以前と以後の断絶に似ている。カセットに焼かれたゲームはリリースが最終版であり、リセットされたら工場出荷状態に戻せるものだったが、オンラインアップデートが前提になった瞬間にゲームは「完成しないもの」になった。アップデートし続ける者とリセットし続ける者が同じ展覧会に同居している。
どの順番でゲームを鑑賞していたのかも重要になる。A〜Sまでの順序が振られていることで必然的に順路ができていき、それ以前にやったゲームの記憶が次のゲームの味わいを変えてしまうことがある。もっと言えば、たいていのゲームには類型があり系譜学を個人の記憶として内面化しているからこそ、「これはゲームなのか?」という問いかけが成り立つ。
即興演劇において蓄積を放棄する技術は、蓄積を前提にするために苦労するAIエージェントとは真逆のベクトルだ。人間がリセットを強いられ機械が記憶のアップデートを志向するという倒錯に価値があり、それぞれが苦手なことをするからこそ、なんらかの運動量が発生するという構造がある。そんな議論が盛り上がったからこそ、ソリッドなゲームポエム一枚だけの展示に強度と格好良さを感じたりもする逆説もある。
簡単に攻略されたくないが攻略したいとは思わせたい19の城
誰も攻めてこなかった こんなところを
ちいっぽけな縄張りを 世界と思っていた
きみに出会ってから 色めきはじめたぼくは
侵略されるまいと、ただ そんな器もないくせに
イマーシブでプレイアブルだが、徹底攻略されることを殆んど期待しない——つまり少しは期待している迂遠で不器用なコミュニケーションは在日ファンクの『城』を想起する。簡単に徹底攻略されたくはないが、前のめりで攻略したいと思わせたい。この展覧会は作品ごとに等間隔な区画を切られており、それぞれの作品は言ってしまえば小さな縄張りに展示された19個の侵略されることを企図して築かれた城である。築いた世界を壊されたくはないが、誰も攻めてこなかった場所まで、なんなら作者が想定していなかった方法で攻めてきてほしい。そこには少し性的なメタファーさえある。
なのか展3
— 模範的工作員同志/赤野工作 (@KgPravda) 2026年2月14日
『本展示におけるゲーム製作行為はご遠慮ください』完全特殊勝利条件
・私(赤野)が本当はゲームを作りたがっていることを見抜いた
・「自分もゲームが作りたいです」と私(赤野)に審査官の目を盗んで告げた
・「ゲームらしきもの」を同意・相談の上で意図的に作った
・私(赤野)を告発しない
作家本人が公開している通り、赤野工作の「本展示におけるゲーム製作行為はご遠慮ください」には完全特殊勝利条件が設定されていたのだけど、それは「ヒヤシンス」の花言葉が「ゲーム」であることからゲーム制作が禁止された世界で現代詩同好会を運営している赤野が本当はゲームを作りたがっていることを見抜くという、迂遠だからこその踏み込んだコミュニケーションを求めていた。徹底攻略されることをほとんど期待しない——つまり少しは期待している文明的なコミュニケーションの試み。
「レイ・ブラッドベリ」の名前が本文中にも出てきているが、類似するのは『霧笛』の話であろう。霧笛の音を仲間の声だと思い込んだ恐竜が訪問して、音の発信源が燈台だと分かった恐竜は暴れだす。つまり「風の歌」とはまさに「完璧には伝達される事のない文章」の事ではないか。風の歌が心に与えられたヒントを思い出させ、「距離が近付いていく」と思わせる過程にある限りにおいて文明は維持される。
何にせよ、19の城はそれぞれの方法で「これはゲームなのか?」を問いかけていて面白かった。石を積みたくなる高さ、財布を置きたくなるスリル、花言葉を調べたくなる好奇心。ゲームっぽさとはアフォーダンスであり、アフォーダンスとは「あなたもプレイヤーである」という無言の招待状であり、それはゲームだけではないUI/UXや人間について考えることになるのだろう。
