太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

『インターステラー』感想〜愛は正直度90%の約束を遡って本物にする引力

インターステラー [Blu-ray]

名画座でインターステラ―を観た

 『インターステラ―』を名画座で改めて観る機会があった。DVDでは鑑賞済みであり、僕の書く文章に「宇宙」「五次元」「引力」といった単語が出てくるのも、この映画の影響が大きかった。

「恋に落ちる」と表現するように恋愛感情は質量のようなものを持っていて、相手をこちらの世界の道ずれにしたいという引力の発生は避け難いのですが、その行使は互いにオプショナルです。そして発生している引力そのものに絶対的な善悪や意味はなくて、どのように位置付けるかは一人称の規範意識でも、第三者による審級でもなく、二人の問題です。

 宇宙規模の壮大な映像や音声を名画座のスクリーンで観たいという想いが叶ったので、感想を書く。以下にネタバレと過剰な思い込みを含む。

縮小志向の近未来

地球の寿命は尽きかけていた。
居住可能な新たな惑星を探すという人類の限界を超えたミッションに選ばれたのは、まだ幼い子供を持つ元エンジニアの男。
彼を待っていたのは、未だかつて誰も見たことがない、衝撃の宇宙。
はたして彼は人類の存続をかけたミッションを成し遂げることが出来るのか?

 生活が困難になるほどの砂嵐が吹き荒れ、植物が枯れて深刻な食料不足になる近未来のアメリカ。NASAや空軍は解体され、エンジニアよりも農夫が求められ、倹約を是として細々と生き延びるのを「仕方がない」と受け入れていく。環境破壊が進んでいけば、そのような未来はありえなくもないのだろう。

 現代日本の生活者マインドとしても自身の置かれた環境への諦観や縮小志向が是とされる側面があって、それはそれで「適応」ではあるのだけど、「過剰適応」になりつつあるのではないかという危惧もある。自分を環境から守るための適応行動が、結果として環境が悪くなっていく傾向を加速させたり、自身を失調させているということだ。辛くてもこれでいいのだ。だがしかし。

寄与の正しい実感が持てる範囲

 この映画においては、元パイロットの主人公クーパーが「実を言うと地球はもうだめです。突然こんなこと言ってごめんね」という宣告をNASAの科学者から受けて、新しく居住する惑星を探すための有人惑星間航行<インターステラ―>への参加を決意する。その意味では「宇宙戦艦ヤマト」に近いわけで、イスカンダルから送られる「エンジンの設計書」と「彼ら」が造ったとされる「ワームホール」に大差はない。

 とはいえ失敗する可能性が高いことは物語中にも明示されおり、「自分の命」だけを問題とするのであれば諦観を受け入れていく方が割がよい。そこにあるのは次世代の子どもたちへの想いであり、自分たち以外の家族への想像力である。

 かつて「中二病」について語るときに、「寄与の過大な実感」という定義を出した。自身のちょっとした行動が世界や社会に対して大きな影響を与えているという関係妄想。それを努力なしに裏付ける根拠として「機関」「前世」「才能(センス)」「人気」といったエビデンスが捏造され、「現実から逃避」する。
 その一方で「社二病」では一般的に逆になり、「寄与の過小な実感」という定義になる。すなわち、どんなに努力をしても大局を変える事はできないという宿命論のなかで「社会は厳しい」という、現実らしい「現実への逃避」をするという逆転が起こる。
 実際問題としては「殆んど寄与できない」が正しい。それは「少しは寄与できる」ことの裏返しである。人生は殆んど無益かつ殆んど無害な事象の積み重ねであり、他者や環境に対しても殆んど無益かつ殆んど無害な寄与が蓄積されていく。

 寄与の実感が持てる範囲として、「家族」は典型的なユニットである。地球が滅ぶと言われたところで、その状況に対しての肌感覚は持ちにくいが、環境の変化よって自分の半径5mにいる家族や周りの人々が死ぬという事実はありありと考えやすい。このような動物的憐憫があればこそ、人は自分以外のために動くことができる。

 しかし、それは十分な駆動原理でありながら、全人類的な「種の保存」よりも「家族」を優先する弱さでもある。インターステラ―の方法として、超大型コロニーを打ち上げるプランA、凍結卵子を送るプランBが提示されるが、プランBの実現性が高いことは明白である。だけど、主人公にとっては家族を救えるプランAにしか興味がないし、プランAが実現できないと分かった瞬間に任務を放棄して地球に帰ろうとする弱さがある。半径5mばかりに囚われて環境全体を疎外することは結果として半径5mすら守れなくなるという視点も必要になるのだろう。

正直度90%の約束

 この映画には「正直度90%」の話が繰り返される。「正直度90%」とはモノリス型ロボットTARSの人工知能に設定された値のことだが、当初は誰も信じなかったオカルト騒ぎから見つかる科学的な法則。重力の制御なんて本当はできないと分かって取り組んでいたプランAを実現するための重力方程式。孤独や使命に耐えかねて「ここは居住可能な惑星である」という嘘の信号を送っていたマン博士などなど。

 TARSの言うとおり、「完璧な正直さは感情を持つ相手を時として傷付ける」からこそ、10個の「本当の話」には1個の嘘もブレンドされる。それは「出来ない」という確信であることもあれば、「出来ないかもしれない」という不確定性かもしれない。クーパーは父親に「守れない約束はするな」と釘を差されながらも、「必ず帰ってくる」と娘と正直度90%の約束をする。

 「正直度100%」を簡単に達成するためには、何の約束もしないで、曖昧に微笑みながら感情を飲み込んでデタッチメントを気取ればよい。だけど、「守れるかもしれなかった約束」をなかったことにしてまで守りきる自己基準の倫理に意味があるのだろうか。それは半径5mにすら届かない自意識の檻である。完璧な正直でも、完璧な嘘でもない正直度90%の約束の羅列は、それを正解にするための努力を呼び起こし、ほんの少しづつだけ物事を進めていく。

その意志力は過去に遡って回収される

 映画中で博士がいう「穏やかな夜に身を任せるな 老いても怒りを燃やせ、終わりゆく日に 怒れ、怒れ、消え行く光に」というこの詩には、死に抵抗を示す老人の気持ちが描かれており、この映画においても穏やかな死を受け入れない足掻きを描いている。

 人為的にしか作れないワームホールを準備してくれたり、ブラックホール特異点の五次元空間の中に、三次元の部屋を用意するのは「神」でも、「彼ら」でもない未来の人類である。現在の自分が行動を起こさなければ「未来の人類」も存在しないわけで、「彼ら」に責任をアウトソーシングしなかった意志力は過去に遡って回収される。相対性理論によって歳を取らなくなったり、五次元空間から過去へ干渉をする。そう、『インターステラー』はタイムマシンの物語でもあるのだ。

人は歳を重ねるごとに、どの選択肢でも結果は一定の範囲に収まるし、外部要因はコントロールできないという宿命論を受け入れながら最小限の工程を選ぶことを学習しがちである。だけど「本当にそうか?」と疑って動き回ることそのものに人生の意味があったりもするのではないかとも思う。「一定の範囲」は少しづつだけ広げられるし、少なくとも「過去をどう思うか?」は変えられる。そういう小さな変化が蓄積していった遠い未来の「一定の範囲」には、過去に干渉可能な5次元空間が含まれるのかもしれない。

騙しきれば、主観的な正直レベルは100%になる

 綿密な宇宙考証をしながらも、コールドスリープしていない時の食料はどうしたの? とか、そんなに引力の干渉をうけているような星に居住するのは最初から無理があるだろといった些細な突っ込みどころをあげればキリがない。その意味では、この物語自体が「正直度90%」で描かれた宇宙規模のお伽話なのである。騙しきれば、主観的な正直レベルは100%になる。

 質量を持った愛とは、たとえその時点では未来の嘘や誤解になる要素が含まれていたのだとしても、それを本当の話にするための恒常的な引力を持ったブラックホールのようなものなのだと思う。5次元空間内では探しきれないポイントに引き寄せる愛という引力は、その時点では正直度90%だった約束を遡って100%にしようと引かれ合っていく。