平凡な自分になぜかベタ惚れしてチヤホヤしてくれる人
男性向け漫画と女性向け漫画をかなりの数読んできた私が至った結論としては、男女とも理想のタイプは「平凡な自分になぜかベタ惚れしてチヤホヤしてくれる人」であってそこにジェンダー差はない
— スドー🦀 (@stdaux) 2015年11月21日
ああ、そこら中の受託系IT屋も「平凡な弊社になぜかベタ惚れしてチヤホヤしてくれる大口顧客」を待ち焦がれていますよ、いつでも。
— 極端流形式仕様 初代𝕍𝕚𝕖𝕟𝕟𝕒𝕋𝕒𝕝𝕜𝕖𝕣 (@tomooda) 2015年11月22日
そういう妄想はよくある。断られるのがスタート地点でヘタしたら自分の存在価値すら否定されかねない「営業活動」はしんどいし、できるだけ避けたい。
実際問題として自分の転職活動はスカウト経由だし、それ以外の仕事だって紹介やインバウンドでの受託ばかりで、新規開拓をついぞしたことがない気がする。誘い受けばかり。仕事に関して言えば『天地無用!』のようなハーレムラノベみたいな展開であると言えなくも……ないか。
受託しているのに自己評価が低いのは逆に失礼
でも、「平凡な私」を固定化したまま「なぜか」見出されるというのは「自分を変えずに他人を変えたい」ということであるし、ベタ惚れかはともかくとしても比較優位として発注頂ける以上、過剰に自己評価が低いのは逆に失礼になるという感覚もある。
「平凡な私になぜかベタ惚れ」という時点で相手の審美眼が狂っているか、自身の自己評価の何れかが狂っているということであり、どちらにせよ認知の歪みがある。「本当の自分」も。
理想を言えば、アウトバウンド活動に消費されるリソースを最小化して品質改善に振り分けることで、「平凡じゃない私」にしたいという思いはある。実際問題としてスキル向上ができているかは疑問だけど。
変えられるのは自分の現在だけ
他人から見出してもらうんだったら、見出してもらうように自分を変えていく必要があるし、それに気づいてもらうための働きかけに「なぜか」は存在しない。もう変えられない過去と他人に執着して、変えられる可能性のある自分の現在や将来にリソースがいかないからダメなスパイラルに陥る。
他人であれ、過去であれ、自身が寄与しえないことに執着するのは気楽だけど不毛だ。将来の当事者意識と結果責任を問われないことには必然性がない。
他者の変化は、ほんの少しだけ望めるが、それよりも自分の導線を変えるほうが楽ならそちらを選ぶ。他者に変わってもらう方が楽なら公開で倫理を説く前に水面下で事を進める。平凡な私になぜかベタ惚れしてくれれば楽なんだけど、なかなか難しい。