質疑応答(ask.fmより)
初詣には行きました?
ご質問ありがとうございます。あけましておめでとうございます。初詣には行きませんね。「面倒」が理由の大半だけど、そもそも僕は神と俗世的な幸福の相関を信じていないのです。
否定神学と祈り
「否定神学」というものがあって、これは「神は人間が考えつくいかなる概念にも当てはまらない」という前提の元、「神は◯◯ではない」という形式のみで神を語る方法論です。この背景には神が世界そのものを作ったのであれば、世界から神を認識する事はできないという「信念」があります。
簡単に言うとゲームの登場人物はゲームの作者とはコミュニケーションできないわけですね。ウィトゲンシュタインも、こう書いています。
世界が“いか”にあるかは、より高い次元からすれば、完全にどうでもよいことでしかない。神は世界の“うち”には姿を現しはしない。(論理哲学論考6.432)
否定神学では、神を否定するのではなく「語りえぬこと」のリアリティをもってして、むしろ神を肯定しているのです。逆に言えば、この方法論を使わずに「神」を肯定するのは非常に困難なのですが、そのパラダイムにおいて、人間が思い浮かぶような「儀式」と俗世的な「幸福」の相関は真っ先に否定されるんですよね。故に「やらなくてもいいこと」リストに仕分けられてしまうわけてす。
信仰の自由
この考えもかなり極端で、特に日本では「八百万の神」が精霊や悪霊の変形として世界の「うち」に姿を表しうるという世界観なんですよね。そもそも何を信じるのかなんてのはその人の意志を尊重すべき事であると思いますし、「祈り」そのものが「個人的な体験」や「共同体のための儀式」として効果がある事も確かでしょう。「神は死んだ」としてもね。
もちろん「やってはいけない事」ではないので、女の子に誘われたらほいほい行きますし、山登りのチェックポイントとしても使ってますよ。瞑想代わりにするのもよいでしょう。それでも僕は俗世的な幸福を生み出せるのは「超越者」ではなくて「人間」だけだと信じているのです。以上でご回答になりましたでしょうか。
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