escapism という潮流
いま、欧米のマーケティングやカルチャーの現場では「escapism(逃走主義)」が新たな潮流として注目されている。これは単なる現実逃避の願望に留まらず、ブランド戦略や働き方、生き方そのものに関わる深層的な変化を示唆している。
For years, authenticity has ruled the marketing playbook. Brands scrambled to appear real, relatable and down to earth; leveraging influencer culture, behind-the-scenes content and raw, unfiltered storytelling to connect with consumers. But in 2025, relatability has reached a breaking point.
特に顕著なのが、ブランドプロモーションにおいて「リアル」や「信頼」を軸にしてきたこれまでの方針が、突如として「幻想的」「夢のような世界観」へと転換している現象だ。これはプロセスエコノミーによるバックステージの公開やインフルエンサーの使用感といった“信頼の可視化”に飽きたユーザーたちが、むしろ「魔法の種は明かさないでくれ」と願いはじめたことの証左でもある。
再びブラックボックスとなった「魔法」は、本質的に非合理であり非効率であるが、「安くて魅力が説明できるもの」であれば同等の技術を持った中国工業製品との戦いになり、ある意味では「説明不能」であることにこそ価値を見出さざるを得ない時代への揺り戻しを起こしている。
説明されすぎた世界の退屈さ
これで思い出したのが、落合陽一の『魔法の世紀』と浅田彰の『逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)』である。
こういった社会変化を1981年にモリスバーマンは「デカルトからベイトソンへ:世界の再魔術化」の中で、科学技術によるまじないの消失・脱魔術化に対するパラダイムとして、社会の再魔術化という言葉で説明しました。
僕が頻繁に使用する「魔法の世紀」や「魔法」という言葉はそのオマージュです。1980年代に指摘されたような工業社会の性質がポスト工業社会、そして、コンピュータ社会の枠組みではさらに魔術化が進行していく。コンピュータの情報独立的性質=互いにブラックボックス化していく性質によって、それは個々人の専門性の範疇以外では魔法でしかなくなる。
現代社会は、あらゆるものがデータ化・数値化され、「説明可能」であることが至上命題となっている。しかし、説明されすぎた世界は、人間の感性や驚きを奪っていく。だからこそ「再魔術化(Re-enchantment)」するための演出を魔法として需要する。
これは40年前に唱えられた浅田彰の「スキゾ的逃走」とも共鳴するものであり、「差別化」ではなく「差異化」によって延々と続くパラノ的闘争を避けるという戦略的逃走とも重なる。もはや闘争ではなく、逃走をすることによって異なる位相から「説明しきれない魅力」の構築を試みる必要があるのだ。それは一種の現実歪曲空間の構築でもある。
罰ゲーム化する「筋トレ」発想から再魔術化を試みる
ところで、日本企業の管理職育成は「筋トレ」的なアプローチから抜け出せないでいると言われる。修羅場をくぐり抜けてこそ一人前、苦労してリーダーになってこそ正義、という旧来的な発想が未だ根強い。ドラゴンボール世代でもある。
「管理職って昔からそういうものでしょ」「人は修羅場を通じて成長するものでしょ」「その中から次世代リーダーが出てきてほしいのに、そんなやわなことばっかり言っていてどうすんだ」と、だいたいこういう発想になります。そして「うちの強みは『現場力』」だと。僕は本当にこの言葉を何百社と聞きますけれども、信じないでください。みんな言っていますから、別に強みでも何でもないことが多いです。
「垂直的なコーディネーションが弱いですよ」と先ほど言いました。つまり経営層自身の戦略性が強みにならないのがこの国である。それのある種の表れであると考えてください。単純に言えば、「筋トレ発想」になりがちで、「大変だよね。力をつけようか」と言って、ジムのトレーニングを増やす、ないしは変えていく。(それによって)管理職研修の刷新・拡充が繰り返されております。
管理職研修をいくら刷新しても、筋トレのメニューを変えているだけでは、競争構造そのものが変わることはない。むしろ、能力の限界を超えてしまった者が「もっと努力すれば乗り越えられるはず」と錯覚して無力感に陥っていくことが結果的に静かな退職を決意させてしまう。必要なのは最低限の実務能力を満たした上での差異化であり、各々を活かした説明しきれない魅力を作る戦略への関与であろう。
逃げるは恥だが役に立つ
現実歪曲空間の構築に逃走することは制度疲労を自覚し、説明し尽くされた世界に抗い、再び魅了されるための戦略的な選択でもある。永久に続く「筋トレ」発想にすがることは戦術的に正しくても戦略的に負けやすい。魔法が使えなくても筋肉が圧倒的に強い『マッシュル-MASHLE- 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)』も結果的に差異を生み出すこともあるが。
なんにせよブランドも組織も疲労せずに競争力を身につけるためには「説明できる信頼」だけではなく、いかに異なる位相からの「説明しきれない魅力」という魔法を構築するかも問われていくのだろう。狩野モデルであり、POPとPODだ。それはそれで一種の認知戦であり、あまりに非科学的なものになってはいけないのだけれども。