太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

水曜どうでしょうディレクター対談『腹を割って話した』で語られた「自分にとっての温泉を掘る」話

腹を割って話した 完全版 (朝日文庫)

温泉を掘り出していく

 『水曜どうでしょう』は、良くも悪くも藤村D嬉野Dがいなければできない番組であろう。ローカルテレビ局のディレクターでありながら、ナレーションやカメラも担当しながら、大泉洋鈴井貴之というタレントと掛け合う「出演者」としても番組の面白さに欠かせないものになっている。『腹を割って話した 完全版 (朝日文庫)』は、そんな二人の対談本なのだけど、そこで語られる「温泉」の話が面白かった。

 自然に湧いてくる「温泉」は「風呂」と違って水道代やボイラーの燃料代なんかを気にしなくても「気持ちの良い」場所が維持されていく安心感があって、それが心の支えになる事がある。嬉野Dがそう話した内容を藤村Dが引き取って、わざわざ「気持よくない状況」を作ってしまいがちなのは何故なんだろうと読者に問いかける。

 「やっぱり仕事って、大変じゃないですか」と同意を求められても困る。作業が大変というのはあるけど、仕事を「温泉」にしていけば何時間でも気持ちよくやっていられる。そういう観点だと、藤村Dなら編集、嬉野Dならカメラが温泉だから、どれだけ作業的に大変でも「俺が気持ちいいんだから、誰も文句を言うな」と言いたくなってしまうとのこと。

自分に取っての「温泉」を掘ること

 これは「人格労働」と「感情労働」の違いだと僕は考えていて、傍目には同じことをしているように見えても維持するために使用される「人為的なエネルギー投下の有無」によって持続可能性や平均的な品質が全く異なるという事を経験しているのだけど、まさに「温泉」と「風呂」の違いでもある。

 「気持ちよさ」を維持するために多くの人為的なエネルギーが必要になってしまえば、結局のところで折れてしまう可能性が高いのだけど、自然に湧いてくるものであればクオリティ追求に集中できる。もちろん、「温泉を掘る」ための努力は必要になるけど、そこから先にも多くの維持コストが掛かってしまう事にあまり拘泥すべきはないのだとも思う。

 似たような話はニコニコ動画運営について書かれた『ルールを変える思考法 (角川EPUB選書)』にもある。そこでは、一定のエネルギー投下をして障壁を超えた後は、外部から維持エネルギーが得られるようになるサービスを作るべきと語られるのだけど、これはまさに「温泉を掘る」作業である。

村上春樹のいう「才能」と純粋贈与

 これに対して村上春樹は文学的才能の事を「ガソリン」と評している。つまり、衝動を維持させ続けるエネルギーこそが「才能」であるということだ。しかし、エンジンが低燃費(+自家発電的)であることと、高燃費を気にしないエネルギーがある事は相対的な効率性としては等価となる。特に文芸において高燃費と高出力は必ずしも相関しないし、藤村Dも後者を前者と勘違いしているのではないか思う事もある。

 だから、どちらが良いという事はないし、両面から探ればよいのだけど、既にエネルギーの枯渇に悩まされている僕のような人間としては意識的に「温泉を掘る」事が生存戦略になっていくのだろうとも思う。それはバタイユの言う「過剰」を僕の外部に作り出す試みでもある。溶岩の贈与に見返りは必要か? 湧き水の贈与に見返りは必要か? 剰余は一定の範囲を超えると「過剰」となり、純粋贈与に変質する。意識低い系として生きていくためにこそ温泉に近付いていきたい。まだエネルギーを消耗しているの?