コロナウイルス感染への巻き込まれリスク
コロナウイルス感染者が自宅待機要請を無視して居酒屋やフィリピンパブに行って消毒騒ぎみたいな話があったようなのだけど、「要請」には法的根拠がないし、物理的な拘束や監視がなければ誰かがやらかすのも時間の問題だったのだろう。
それはそれで救いのない問題なのだけど、一番しんどいのは偶然フィリピンパブに居合わせた他の人々だろう。正直に名乗りでれば会社や家族から白い目で見られ、正直に名乗りでなければさらに被害を拡大しかねない。フィリピンパブにはギリギリセーフとギリギリアウトが混在するのも難しい。
監視社会におけるかりそめの倫理
新型コロナウイルスの猛威に、風俗業界でも衝撃が走った! 大分市は3日、市内の30代女性が新型コロナウイルスに感染したと発表。それだけではなく女性の勤務先が同市都町にある「ラウンジ サザンクロス大分」であることも公表したのだ。ラウンジとはキャバクラのような形態の店のこと。感染拡大防止のためとはいえ、思わぬ“店名さらし”に、風俗嬢たちが恐怖におののいて悲鳴をあげている――。
キャバクラでの感染公表も行われている。さらに濃厚な接触をする性風俗でも起こっているのかは分からないけれど、行動公表に躊躇がないことは分かる。「感染の近くに居た事がわかったら前後の行動が公表されるルール」は確実に行動様式に影響を及ぼす。
大前提としてセクシャルな要素のある店やイベントにはいけないし、同人活動やネット活動。宗教、政治、転職に繋がるような場所に行くことさえリスクとなる。女子プロレス観戦に性的な意味を見出していなくても、公表されればそういう扱いを受けるだろう。監視社会のかりそめの倫理として極めて保守的な行動を取るしかない。
監視社会ではなく監視可能社会
現代は監視社会と言われているが、監視する側のリソースの問題として、「自分ごときには常時の監視がつかないであろう」という自由が両立する。フォーマルに振る舞うべき場所での規律が厳しくなるほど、そうでない場所では荒れたくなるのも人間だ。
パノプティコンは、円形に配置された収容者の個室が多層式看守塔に面するよう設計されており、ブラインドなどによって、収容者たちにはお互いの姿や看守が見えなかった一方で、看守はその位置からすべての収容者を監視することができた。
監視側のリソース不足を悟られないための方法論として、「いつ見られているか分からない」と言う状況を作り出すのがパノプティコン監獄である。例えば期末試験中に教室の後ろからみられていると、前側にいるよりも「目を盗んで」のカンニングへの難易度と抑止効果が格段にあがる。
現代の監視可能社会はランダム性に加えて「記録」という概念が技術的に可能となった。コンビニエンスストアの監視カメラ設置アピールも監視されている事自体よりも、監視可能な状態にある事や「問題があれば過去遡及して録画を確認する用意がある」という事を周知するためにある。
過去遡及型監視結果のランダム公開
過去遡及型の監視可能性は「自発的な問題を起こさなければ関係ない」という楽観とセットにあった。しかしながら、新型コロナウィルスによって、周りに感染者が居たと分かった時点から過去に遡って監視され直される。それどころか広く公開されるリスクまで内包される。
「偶然一緒に居合わせた」というランダム性まで社会的な死亡に至りかねない監視結果の暴露条件に組み込まれるのは疲弊する。別にコロナウィルスがなくても異性と濃厚接触するようなお店に行くことはないのだろうけれど、好奇心を満たすための冒険に出る妄想すらしにくい監獄に日本社会はなってしまったのだと感じる。

- 作者:ミシェル・フーコー
- 発売日: 1977/09/22
- メディア: 単行本