太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

内田樹『街場のメディア論』〜贈与と反対給付義務の「前借り」で読み解くメディア論

街場のメディア論 (光文社新書)

講義録のような「街場」シリーズ

 内田樹の「街場」シリーズ4作目。「街場」シリーズとは、大学でのディスカッションのテープ起こしを元に書かれた本であり、既に多数の「街場」本が出版されている。

 大学の講義録のように進むので、文字で読むと少々お節介なぐらいの反復や例示があったりもするのだけど、その主張が心に染みこんでダンスステップに変わるまでには、そのぐらいの手続きが必要がなのだろう。教育者としての彼は常にパフォーマティブであろうとする。

縦横無尽に展開される内田節

 語られる内容には「メディアの不調」というテーマがあるものの、縦横無尽に雑多であり、ひとつの結論に向かって論が進むわけではない。僕なりに気になった内容を以下に列挙する。

  • 適正や潜在能力が先にあるわけでなく、仕事に求められて能力開発される
  • 「なぜ、自分は判断を誤ったのか」を簡潔かつロジカル言える知性がもっとも良質な知性だが、誤りを認めないことが良いこととされがち
  • 医療や教育などの現場で「お客さま=消費者」として振る舞いが成立するほどに長期的な質が下がる。
  • 言葉から「個人」が欠如することで責任感を感じずに攻撃する事ができる。だれでも言いそうな事を選択的に使い続けると「自分自身が存在しなくなっても誰も困らない」という呪いを自分自身にかけることになる
  • カミュは「それを否認すれば生かしてやるが、それを主張し続ければ殺す」という選択に迫られた際に簡単に捨てられるような言説は「たわごと」に過ぎないと切り捨てた
  • 電子書籍の真の優位性は「紙ベースでは利益の出ない本」を再びリーダブルな状態に蘇らせたこと
  • 本棚には前未来系の理想我であり、「自分から見て自分がどういう人間に思われたいか」が書かれている

コストパフォーマンス主義の不調

 なかでもコストパフォーマンス主義と贈与としてのメデイアの対比が面白い。コストパフォーマンス主義については以下の記事でも取り上げた。

 教育や医療や報道について、「消費者」としての視点を過度に持ち込んだ途端におかしな事になるケースは多い。「消費者」は「最低限の代価で最高のサービス(=コストパフォーマンス)」を求めるべく行動するわけであり、それが全体最適や未来の価値から遠ざける。

 例えば大学生が「もっとも少ない学習量を代価にして、もっとも見栄えのいい学歴という商品」を手に入れようと「消費者」らしい振る舞いをすれば、「無知であるにも関わらず、一流大学を出ること」が勝利条件となる。実際にそれを自慢する人もいて、謙遜や自虐風自慢もあるのだろうけど、根底にあるのは他者よりも「買い物上手」であった事の誇りであると内田樹は主張する。

 メデイアについても同じであり、商取引のモデルで考えるべきではないという。代わりに出てくるのが贈与論である。

贈与論と反対給付義務

 そもそも贈与論の基礎となるのは「反対給付義務」、すなわち「贈り物をもらったら返礼しなければない」という本能的な負債感によって人間社会の基幹制度が成立しているという仮説である。この反対給付義務は直接的な返礼という単純なモデルだけではなく、いくつかのモデルを含む。

 例えば、マオリ族において品物(タオンガA)を無償で受け取り、第三者に譲った時にお返しの品物(タオンガB)をもらったとする。この場合、タオンガBはタオンガAの霊(ハウ)であり、最初の贈り主にタオンガBを返礼しないと死ぬことになるという考えがある。これは第三者が第四者に無償で譲った場合に第四者から第三者とタオンガBの返礼があった場合は、第三者から私にタオンガBが返礼され、私は最初の贈り主にタオンガBを返礼するという形で敷衍できる。

 つまり誰かが、「返礼せねば」と思うまでタオンガAにはハウが内包されず、返礼を受け取った時に初めて「それが贈与であった」と知ることになるのだ。

 あなたが僕にきらきら光る石をくれた。「あ、ども」と受け取ったけれど、別にいらないので、友達に「あ、これやるわ」と言ってあげた。何人かの手を経巡った後に、「げ、これはダイヤモンドだ」と気づいた人がいて、「このような貴重なものを、とてもただではいただけません」ということで代価を払うことにした。それが回り回って、僕のところまで届いた。これは僕が退蔵してよいはずのものではないから、さらにあなたに戻される。そういう順序です。 「光る石」の価値は、あなたが僕にそれを贈ったときには存在しない。それに対して返礼せねば「何か悪いことが起こり、死ぬ」と思った人の出現と同時に出現する。贈与において、価値の生成は順序が狂ったかたちで構造化されている

贈与論における価値生成とメデイア

 メデイアの価値にも、このモデルが適用できるのではないかと論が進む。つまりコンテンツが様々な経路を通じて次から次へと手渡される段階では、価値は発生しておらず、誰かが反対給付義務を感じた瞬間に「ハウ」が内包され、価値が遡求的に発生するという事である。

 我々は様々な情報を様々な経路でインプット/アウトプットしているが、それが直接的に役に立つことは殆んどない。それでも、コミュニケーション基盤に載せる事で、「それが必要だった誰かに届くかもしれない(=郵便的)」「勝手に有用だと思う人もいるかもしれない(=誤配)」という淡い期待に基づいてパスを続ける。

 長期的な贈与のサイクルが始まるためには、一見しては「それがなんだかよくわからないもの」である必要がある。そうであるほどに「これはもしかすると私宛ての贈り物ではないか?」「これは彼にぴったりなのではないか?」と勘違いをする余地が生まれる。ほとんどのコンテンツは特定の誰かのために書かれたものでないのだが、それを半ば認識しながらも「これは現在の私のために書かれた」という錯誤による反対給付義務を感じた瞬間から価値が発生するのだと内田樹は主張する。

著作権法と贈与論のミスマッチ

 このように考えると、著作権法の倒錯が見えてくる。「著作物それ自体に価値が内在している」ではなく、それを読んで、タオンガと認識し、「返礼せねば」と思うまで、ハウを内包できず、価値は仮説的にしか存在しえない。にもかかわらず、即時に代価を回収しようとすれば「未来の読者からの返礼」を前借りすることになるという事だ。

 僕自身もKindleセールなどの機会において、既に読みきれない量の本を購入しており、「前貸し」をしている感覚がある。無時間的に入手が行える電子書籍においては「オンデマンド」による購入が正しい戦略なのであるが、Amazonは時間ごとの価格差の波を作る事でこの均衡を崩そうとしている。実際、日替わりセール等で「多く購買されたものの、殆んど読まれていない書籍」が増えてしまったのでないかと推測する。それを「書き手」としてどう捉えるかという話である。

 釣り炎上や広告トラップなどが嫌われるのも、この「前借り」された感覚によるものと思われる。つまり、アテンションエコノミー機会費用を前借りしておきながら、一方的に取引を打ち切って、デフォルト(債務不履行)された経験を重ねれば、前借りに応じる人は少なくなるだろう。そんな事を続けるうちに、前借りがなければなし得ない有用な事も出来なくなってしまう。また「パクリ」には返礼の連鎖にあるタオンガBをせき止めてしまう罪がある。

返礼義務の超克と「いいひと」だけではない社会

 それでも、コストパフォーマンス主義からすれば、遠い読者やオリジネーターに価値を感じてもらうかどうかに関わらず、瞬間瞬間にお金が手に入ればよいという考えもあるのだろうし、本能としての返礼義務を感じたところで、それを理性的に超克する人が増えた事による共犯性がある。

 人間関係の流動性が高まり、人間性への疎外が行われがちな現代においては、負債感をオフバランス化した上で一方的にデフォルトさせる事も容易となり、デフォルトされた側も「そもそも価値がないと判断された」のか「価値があると判断されたが返礼されなかった」のかを切り分けて追求するのは惨めになるだけである。

 結局のところで、岡田斗司夫のいう「いいひと」コミュニティでなければ成立しないような事は社会全体には敷衍しきれないのであるが、サブセットとしては成立しえるし、そもそも論をおさえる必要はあろう。

 つまり、マスであれニッチであれメディアの価値は、受け手がそれを感じた時点から発生し、その事を書き手が認知するまでには時間がかかるということであり、その間に多くの「前借り」が自分の中に澱として溜まっていないかを意識したい。