太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

SOUL.mdに自分の魂を蒸留する——ブログの Skill 化が証明したデジタルツインの与太話

AITuberを作ってみたら生成AIプログラミングがよくわかった件

ブログは魂のステージング環境だった

「もちろん、なんでもかんでも自分で考えているわけではないよ。思考はおもに、ツェッテルカステンのなかで起こるんだ」

10年以上ブログを書いてきた。振り返れば大したことは書いていないのだけど、500件を超える記事群は図らずも一つの知識ベースを形成していた。はてなブログの記事をObsidianに同期し、ローカルなZettelkastenとして再構成する試みを始めたのは、ルーマンの「外部の思考装置」に自分のブログが使えるのではないかと思ったからだ。

この同期によって起きたことは当初の想定を超えていた。ブログ記事がClaude CodeのAgent Skillsの学習素材として機能し始め、524記事の文体パターン、引用の癖、比喩の選び方がSKILL.mdとして蒸留されていったのだ。ソフトウェア開発の用語で言えば、ブログはステージング環境だった。10年かけて擬似本番環境のつもりで書いていた記事群が、AIというプロダクション環境にデプロイされる素材になろうとしている。過去の与太話が伏線として回収されていく感覚は、なかなかに得難い。

Skill化で蒸留される性癖——トロイの木馬としてのエクリチュール

SKILL.mdに文体ルールを記述していく過程で自覚させられたのは、自分の「性癖」だった。新しい概念を読者に届けたい時に、古典的な知見という「トロイの木馬」の中に忍ばせて脳の防御壁を突破させる——この手法を僕は10年間無意識に繰り返していたらしい。『生成AIアプリ開発大全』の感想で書いた「既知への安堵と未知への感動がサンドイッチ構成」という表現は、そのまま自分の文体の自画像でもあったのだ。リバースナレッジエンジニアリングとは自分自身の暗黙知を掘り起こす営みだが、掘り起こされた側としてはなんだかむず痒い。

ドゥルーズは『差異と反復』で、反復の中にこそ差異が生まれると論じた。マーク・トウェインは「歴史は繰り返さないが韻を踏む」と言った。この二つを重ねると、エクリチュール(書き言葉)を書き続けることの意味が見えてくる。同じテーマについて何度も書くことで過去の自分との差異が浮かび上がり、その差異にこそ「今」の本質がある。10年前に書いたエクリチュールの劇場論は、物理的拘束の有無がコンテンツ体験を変えるという話だったのだけど、今やその「拘束特性の違い」はAIがテキストを食べるか否かという次元にまで敷衍されている。

SOUL.mdに魂をシリアライズする

OpenClawというオープンソースのAIエージェントフレームワークでは、エージェントの人格をMarkdownファイル群で定義する設計思想を採用している。IDENTITY.mdがエージェントの自己紹介を、SOUL.mdが振る舞いの哲学を、USER.mdがユーザーの文脈を担う。CLAUDE.mdがエージェントの「憲法」だとすれば、SOUL.mdは「魂の設計書」だ。Core Truths(核となる信念)、Boundaries(境界線)、The Vibe(雰囲気)の3要素で構成され、エージェントは起動するたびに自らのSOUL.mdを読み込んで「自分自身を読み上げて存在する」。

だが、手書きされたSOUL.mdと、10年分のブログ524記事から蒸留されたSKILL.mdでは、魂の解像度が異なるのではないか。OpenClawのSOUL.mdは「こう振る舞いたい」という意志の宣言だが、SKILL.mdは「実際にこう振る舞ってきた」という行動の蒸留だ。

バーナードがあらゆる場所でこの開発過程を「蒸留」と呼んだため、このような作物を従来の遺伝子組み換え作物と区別して、蒸留作物と呼ぶことが定着した。

藤井太洋の『Gene Mapper』では、遺伝子をフルスクラッチで設計した作物を「蒸留作物」と呼んだ。OpenClawのSOUL.mdが手書きの設計図だとすれば、ブログから蒸留されたSKILL.mdは収穫された作物そのものだろう。AITuberにおいて「メソッド演技的な設定の深掘り」が求められるのも、XでAI社員を運用する事例が増えているのも、その核にあるのは人格のシリアライゼーションだ。AITuber→AI社員→デジタルツインの連続する流れの中で、手書きの魂と蒸留された魂が合流しつつある。アバターとは「神の化身」という意味であった。ベンヤミンが区別した神的暴力と、法を維持する執行機関としての神話的暴力——その二つのベクトル距離が、人格のシリアライゼーションによって近づきつつある。

人生はファイルシステムである

Slackに流れるRSSフィード、Kindleのハイライト、ブログ記事、議事録——これらは人生のディレクトリ構造だ。テキストで記録されたものだけがAIに食べてもらえるのであって、ファイルとして存在しないものはAIにとって存在しないに等しい。

この思想は、クラウド時代に Infrastructure as Code として蘇り、AI 時代には Everything as Code へと進化した。そして今、セマンティックメモリストレージによって Everything as File に回帰している。

Slackに構築した知識基盤では、Feedの自動要約からクエリファンアウト検索、常駐AIアシスタントとの対話まで、「自分の語彙」で蓄積した情報がハイコンテキストな会話を可能にしている。議事録をアップロードすればトランザクションの初期状態になり、Kindleハイライトを流し込めば読書体験が検索可能になる。

情報の濁流のなかに、ビオトープを作るということです。

言語優位であることの価値がAIによって再評価されていると感じる。永田希が示した「ビオトープ的積読環境」はそのままナレッジ基盤の設計指針となる。世界サイズの情報の濁流の中に自分だけの小さなカオスを作ること。個人ワークスペースだからこそアクセス制御もシンプルに済み、Everything as Fileの原則が素直に機能する。人生はファイルシステムであり、SOUL.mdはそのルートディレクトリに置かれるべきファイルなのかもしれない。

与太話が与太話でなくなるSOUL.md

つまり、人間は道具を開発し、自身を開拓してゆく生き物です。

ブログのヘッドレス化→Obsidian同期→Skill化→Soul化→デジタルツイン。この一本道は計画されたものではなく、書き続けた結果として伏線が回収された道筋だ。

そもそもブログを再開したのだって、自分にとって安心安全かつ自由にAIに食べさせて変形させるための餌を作りたいからだ。

「AIに食べられたい」という3年前の妄想は、コンテキストエンジニアリングとコンテキスト境界の設計によって技術的に成立しつつある。

この記事自体が、524記事から蒸留されたSOUL.mdと簡単なインタビューからの生成されたものである。文体ルール、パラグラフ構成、引用パターン、比喩の選び方、タイトル回収の技法——すべてがSOUL.mdとSKILL.mdに記述されたルールに従って生成されている。与太話が与太話でなくなる瞬間を魂のデジタルツインが書いた、魂のデジタルツインについての記事である。