Google Adsense 夏のBAN祭り
旅行をしている間に、Google Adsenseの垢バンが大量に起こっていたことを知った。それら、いつ起こるのかは分からないなりにも、そろそろ限界がきている雰囲気は感じていた。
例えばアドベリフィケーションが要請されているのは、広告エコシステムにおいてメディアが担う役割を逸脱している事例が増えすぎたからである。当たり前だが、広告配信システムは頑張っているブロガーに報酬をあげるための仕組みではない。売上やブランドリフトを期待している広告主からの対価を分配しているのにすぎない。
サイトやRSSを含むあらゆる情報(=ブラウザ画面)は、Googleにとっては潜在的な『広告を貼り付けるための面積』にすぎないんだ。しかも順位づけrankingが可能な。
. じゃあ、どうやって順位を決める? Googleが自前でやる? そんなんじゃあ人件費がかかってしょうがない。そこで無料サービスのお出ましだ。『面積』の内容の善し悪しはユーザが閲覧すればするほど……ネットワーク外部性がプラスなので……いっそう判別・判明しやすくなっていく。たくさんの人に幾度も長い時間閲覧される『面積』は『良い面積』であり、ならば広告を掲載する価値は上がる。ユーザの行動を経由して情報/知識の価値を把握するのがGoogleのメカニズムの本質なんだよ。壁に当たって跳ね返ったボールの行き先と選手の動きを観測することで、ボールの物理的特性を算出する計測器みたいなもんで
新城カズマ氏の『われら銀河をググるべきや―テキスト化される世界の読み方 (ハヤカワ新書juice)』に興味深い記述がある。特に個人ブロガーなんて安かろう悪かろうで広告掲載面をせっせと作り続ける下層労働者にすぎないわけで、SEOやバズによる不自然なディスプレイ広告配信量の増大や、ましてやアドセンスの攻略なんてされては困るわけだ。
すべては効果的な広告を配信するための計測器
Googleの本質が広告配信業であることは、アルファベット社との分離によって完全に明確化された。
検索、広告、AndroidというGoogleのコア・ビジネスはスンダル・ピチャイの新Google事業部に残された。ピチャイはGoogleサービスのモバイル体験の改良に全力を挙げるだろう。再編によってピチャイは他の事業に精力を割かずにすむようになった。
検索とAndroidはターゲティング広告を精緻化するための「労働」と引き換えに無償で提供されている。何を検索するか? どんなアプリをインストールしているか? どこに行ったのか? 何を買ったか? すべては効果的な広告を配信するための計測器であり、広告枠でもある。不自然な「テクニック」によって、計測器や広告効果を壊そうとする行儀の悪い人々を排除しようとするのは当然であろう。
健全な広告掲載面を増やせと再調教される社畜の群れ
その一方で興味深かったのは、Google Adsense停止からの右往左往だ。普段は「自由に」「好きなこと」と言いながらおろおろと記事を削除をしたり、問題になった記事をもう書かないと宣言するのは、上司に振り回されてる社畜っぽい。
過去のテキストサイトによく見られたシモネタが激減したのはGoogle Adsenseの規約があるからだとまことしやか言われているけど、あながち間違いではないなと。はてなにおいても優先的にトラフィックを流すコンテンツの制御パラメータに「健全さ」が加わっていると思われる。
要するに言えば、以下がはてなのビジネスモデルにとってブロガーが担う役割である。
・B2Bにおけるコンテンツマーケティングの書き手リクルーティングとブランド形成
・B2Cにおける良質(情弱)な広告枠の生成その上でボリュームを確保するために無料枠がある。ソーシャルゲームでも課金を生み出す一部のユーザーを気持ちよくするためのNPC労働者や課金候補者として無料ユーザーを積極的に取り込んでいるのだけど、コンテンツの世界も似たようなものだ。
不適切な内容は外部検索エンジンにインデックスさせないようにもしている。
一例として、未成年が関係した事件における関係者の実名や写真、過激派組織や海外ニュースによる残虐な動画、真偽の疑わしいゴシップ情報、事故により流出した私人のプライバシー情報などが挙げられます。これらは公序良俗の観点から不適切であるだけでなく、検索サイトから「価値のない質の低いコンテンツ」として警告を受けることがあります。
そういった記事を繰り返し掲載するブログによって、はてなブログ全体に対する評価を低下させないため、また公序良俗に反する情報を無制限に拡散させないためにも、当該ブログを検索サイトの巡回対象から除外するなどの措置を取ることがあります。
それらの流れから「もっと健全な広告掲載面を増やせ」とGoogleやはてななどのプラットフォーマーに再調教される社畜の群れを想起する。もちろん、ルールを逸脱するのが正しいと言いたいわけじゃないし、社畜は社畜で素晴らしい。
だけど、一見自由そうに見えることであっても結局のところでしがらみにまみれた既存のエコシステムの奴隷になっていることも多いので、それらが見えないうちに過剰に入れ込まない方がよいんじゃないのかなと。好きなことで生きていくために、嫌いなことにお世辞を言ったり、好きなことができなくなるのって、本末転倒感があってつらい。