愚者は経験に学ぶ
基本的には安定志向な人間なので、普段の生活をなかなか変えらのだけどで、ブログについては犯罪自慢や差別表現でもしない限りは「試してみることに失敗はない」がしやすい。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」といいますが、わたしは愚者なので仕方ない。
「当事者性がなければ理解できない事が多すぎる」という事をまさに経験から学んだので『サブカルで食う 就職せず好きなことだけやって生きていく方法』でいうところの「人生社会科見学」をしている。『1泊1400円のドヤでクラウドを活用してノマド生活〜ノマドヤ・ワーキング・マニュアル Ver 1.0 - 太陽がまぶしかったから』なんてのは最たるものかもしれない。
賢者は他人の失敗を学ぶ
「賢者は歴史に学ぶ」は誤訳だそうで、「賢者は他人の失敗を学ぶ」ということらしい。その意味においては、少なくとも私が失敗した過程を記録しておく事は、他の誰かに役立つ可能性があると言えそうである。
まぁ,昨日紹介したこれ(http://bit.ly/gy8Kwr)もそうだけど,ビスマルクの言を引っ張りたいんだったら,その「歴史」とは「他者の失敗経験」のことだし,「経験に学ぶ」とは「痛い目見ないとわからない」ってことなんだけど……まぁ,都合よく曲げて使われまくってるなぁ,と
— 久間知毅 (@HisamaTomoki) December 10, 2010
Ihr seid alle Idioten zu glauben, aus Eurer Erfahrung etwas lernen zu können, (諸君は自らの経験からいくらか学ぶことができるという,全く愚かな考えであろうが,)(続く)
— 久間知毅 (@HisamaTomoki) December 10, 2010
(続き)ich ziehe es vor, aus den Fehlern anderer zu lernen, um eigene Fehler zu vermeiden.(余はむしろ他人の失敗を学ぶことで,自分の失敗を回避することを好む)
— 久間知毅 (@HisamaTomoki) December 10, 2010
適者生存
M:TGには「適者生存」というカードがあって、このカードさえ場に出ていれば、手札にあるクリーチャーカードを捨てる事で、最適なクリーチャーカードを安価に手札に加えられるようになる。「サーチ」と言われる効果だ。
この時に捨てられる側のクリーチャーカードは、まさに「捨てられた事によって」価値を発揮できるわけで、その客観的な能力は選ばれた側のクリーチャーカードにとってはトリヴィアルである。だから、せめて「捨てられる選択肢になりたい」というある種の義務感のような願望を抱く。
やあみんな 聞いてくれるかい
この世にはさぁ なりたくもないのに時々ねえ
暗くなっちまう奴っていうのが たくさんいてねえ
ずいぶん面倒な目にあっているんだよ
それは 本当に厄介でねえ 俺もその一人だったんだ
だからさ 俺はサーチライトになりたいんだ
俺はポッケのない猫型のロボットで 何もできんのだけど
歌うことと モノを書くことだけはできるのさ
俺の歌とペンが サーチライトになるのさ
俺みたいは なるなよ
お前は 考えてやるのさ
俺みたいにはなるなよ
失敗した人生はごく普通の人生
僕自身は人生ゲームでいうところの開拓地送りの過程にあるのだけど、強く望んでそれを目指してきた部分と、これでよいんだっけ?と思う部分が同居している。でもまぁ「この道はダメだよ」って示す事になっても、その方がひとつの社会貢献なのかもしれない。id:finalvent さんが『考える生き方』を出版した時に以下のような事を書いている。
ただ、失敗した人生というか、いろいろ自分なりに頑張ってみたけど、たいしたことなかったなあ、という人生は、ごく普通の人生ではないか、そういう意味で、普通の人生をそれなりに55歳まで過ごした人の思いの、ごく一例みたいな本があってもよいんじゃないかと思いました。
自分も若い頃、立派な人の本も読んだけど、「この人、ダメで終わったなあ」という爺さんの意見もいろいろ聞いて、意外というか、実際そっちの側の人生を歩んだせいもあり、まあ、参考になることがあったなという思いもありました。
少なくとも僕自身には普通の人のブログを読んで生まれた視点を織り込んで判断材料にする事があるのですが、自身も誰かの頭の中に転生したいという欲望があるのかもしれない。転生したからといって同じように動いてほしいのではなくて、むしろ捨てられるためだけの選択肢として適者生存のサーチライトになりたい。「Aにもなれるかもしれないし、Bにもなれるかもしれない」という状態では仮にBが正解だったとしても、Bに100%のコミットメントできない事が原因で失敗してしまうかもしれない。だったらAには僕が先に飛び込んでおくから、あなたはBに飛び込んでほしい。よう詩人!
どこに飛び込んだところで「ダメだけど普通の人生」っていうアトラクタフィールドに殆んどの場合は織り込まてしまうのだろうけど、だったら各々にとって楽しそうな所を狙って、誰かが良い所に到達できえれば僕自身も救われるような気がする。僕にとっての「楽しい」はハイテンションな自己啓発とは真逆のところにあるのだけど、全員にそうなってほしいわけじゃないのだ。他山の石に私はなりたい。