面白い事しか公開すべきではないのか
ここの所でブログを元に商業媒体に云々話が周りに増えていて、素直に頑張って欲しいと思う反面、声を掛けられる機会がなくなった自分を意識することにもなる。実際問題として断っていたのは僕の方だし、そのクオリティにない。ここのところで開店休業状態が続いているから当然だし、本格的に開店したってもう自然に巧く踊れないのは分かってる。
岡田斗司夫は『あなたを天才にするスマートノート・電子版プラス』において「山のように積み上がったアイディアが腐って頭の中で腐葉土のようになるという状態」を作るためにノートを書き続けていると述べていて、今はその段階であろうと思いつつも、本書には「ブログには面白いことしか書いちゃいけないからノートに書く」ともあって、そりゃそうかという納得感。
空中庭園のメンテナンス
村上春樹の『国境の南、太陽の西 (講談社文庫)』には主人公の経営するジャズバーに対して、「空中庭園」のメタファがある。つまり人は精妙にメンテナンスされた架空の風景に自身を取り込むためにこそ店に来るし、空中庭園は飽きられないように変化し続ける必要があるという述懐。これはそのまま小説にも通づる事で、村上春樹自身の小説論のようなものであると読み解く事もできる。
その上で本書には「ヒステリア・シベリアナ」の話が出てくる。シベリアの農夫は毎日、太陽が東からでて、西に沈むまで畑を耕し続けていると、いつか自分の中の何かが死んでしまい、太陽の西を目指して歩き続けることになる。恐らく実在の病気ではないのだろうけど、話としては分かる。
毎日のメンテナンスの結果として、空中庭園は適切にリニューアルされていくものの、それをする人間の中身は磨耗していき、全てを投げ出して蛮勇に走る衝動に蝕まれていく。「太陽の西を目指す」のは「挑戦」であるが、その一方ではアイロニカルなメタ視線ともセットになっていて実態的な逃走を内包している。出来もしない事を出来ると言うのは、いつだって挑戦と逃走が重ねあっている凡庸な過程だ。
メンテナンスした風景に入り込む権利
空中庭園であれ、腐葉土であれ、それを自身から外部化された存在であると位置付ける場合において、結果として自身の内側が磨耗していくのであれば、相応の対価が別にないとバランスしないという態度であった。しかし、自身がメンテナンスした風景に深く深く入り込める特権を持てるのは報酬として申し分ない。
つまり、ある成果物を自身の内部に位置づけるのか、外部に位置づけるのかという問題設定がおかしくて、入れ子構造においては簡単に入れ替わるコイン裏表の問題に過ぎない。こうやって安全に痛い範囲で悩むフリをするのも、気まぐれに西に歩いては戻ってきて、おざなりに耕す空中庭園の要素に過ぎないのだけど、他の人が自身の空中庭園の見栄えをマシにする努力をしている事については正当に評価すべきだし、少し感化されてみるのもよいのかもしれない。