太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

「モ娘。高橋焼き肉事件」が僕のなかでは未だに「事実」となっている

僅かなエビデンスから想像すること

 僅かなエビデンスしかなくても、それを使ってさもありなんという分かりやすい仮説を思いついたり、提示されたりすると、結構信じてしまうという流れを眺めてる。大抵の芸能スキャンダルもそうだし、実話系週刊誌もそういうものだ。ブログで人気になりやすいのもそういうネタが多いのだけど、提示する側も受け取る側もベタに降り過ぎていて危険に感じる事がある。

 古参のモーニング娘。ファンとテキストサイトやブログによる実話妄想系の文章は相性が良くて、中でもメンバー同士の百合妄想というのはひとつのジャンルになっていた時期がある。ただでさえカジュアルにキスをするシーンが流されていたし、仲が良くてもそこまでするか?という話が本人たちから事実として語られるわけで、いくらでも都合の良い話をそれらしく作る事ができた。失恋や寝取られなどを含めて。

 本当の所では大した話でもないと理性では分かりつつも、この符丁の一致があるなら「でも、もしかして」という擬似相関の重ね合わせにロマンがあった。ジャニーズやおいやプロレス都市伝説、超科学などのオカルトなんかもそういう楽しみ方である。最近は女性声優ブログの写真から男女交際を妄想する話が表にでてくることが多い。この時にアイロニーを含んだ没入感なのかはよく問題になる。はてなブックマークオフ会にリアルな手斧を持ち込んじゃダメだってアナウンスする必要があるみたいな。

高橋焼き肉事件

 モーニング娘。に関する妄想としては「高橋焼き肉事件」がすごかった。ハローモーニングの罰ゲームで焼き肉が没収されたサイニ、戦犯だった高橋がおもむろにホットプレートを引っ張ってきて、その瞬間に画面が転換。そのまま「なかった事」のように話が進むというシーンが放映されて、大いに妄想をかきたてた。確かにアレは「何か」があったのだろうと、未だに自分の中では「事実」となっている。

「もらってきたー!」
ホットプレートの載った台を嬉々として引っ張ってくる彼女を見たとき、
わたしは例えようの無い戦慄を覚えた。なぜ彼女は平気であんなことが出来るんだろう。
わたしたちはゲームに負け、その結果としての漬物を味わっているのだ。
あの焼肉は、スタッフが用意した演出なのだ。わたしたちは悔しそうな顔をし、
スタッフに恨み言の一つも吐けば、それで番組は完成するのだ。
それなのに、なぜ。
わたしたちはその瞬間、無言となった。新垣の嬌声の残響が虚しくスタジオに響く。
彼女が引っ張る台に載ったプレートから、電源コードが伸びている。
見る見るうちにその弛みが無くなり、コードは限界まで張り詰めた。
スタッフが駆け寄る。わたしたちは声にならない叫びをあげる。
がっしゃーん!
プレートはコードに引っ張られる形で見事な弧を描いて床に落ち、
台は慣性の法則に従ってコロコロと動きつづけていた。
彼女は薄ら笑いを浮かべたまま振り返り、そのまま永遠とも思えるような
時間が流れた。だがそれは実際には1秒もなかっただろう。

辻が落胆の絶叫を発した。それが引き金となったかのように、彼女は体を
びくんと震わせ、次の瞬間、床に散らばる肉片に飛びついた。
彼女は素手で一心不乱に肉を掻き集め、多量の埃を帯びた肉を小皿に移している。
わたしたちはその姿を憐憫の眼差しで見つめた。彼女は、必死なのだ。
矢口が声をかける。「高橋、もういいよ・・」
しかし彼女の耳にはもはや誰の声も届いていないようだった。
「もういいって!」矢口は彼女の肩を掴み、こちらを向かせた。
そして、誰もが息を呑んだ。
眼に宿る光、顔つき、歪んだ口元、そのどれもが正常な彼女のそれではなかった。
彼女は、埃まみれの肉が載った小皿を藤本に突き出し、言った。「食べてください」
藤本は恐怖の表情を浮かべ、後ずさりしながら小皿を手で払った。
肉と小皿が宙を舞い、床に落ちる。彼女は「ヒッ」と小さく叫んでから床に崩れ落ちた。
「あっ・・大丈夫?」藤本が彼女に声をかけようと床に膝をついた途端、
彼女は再度体を震わせ、小さく呟きはじめた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい・・・・」

高橋焼肉事件の真相を教えてくれ

氷山の一角の確からし

 現代では「完全な創作」だと分かっているとノリきれないという風潮があって、こういう「お話」であるからこそ一定の「幻想強度」が必要になってくるのだけど、逆に少しでも関係しそうな事実が出てくると途端に「確からしい」という想像力が働きやすくなって再帰的に妄想が強化される側面がある。氷山の一角の下が本当にどうなっているかなんて関係ないのだ。

 それは錯誤であり、思い込みとしてラリっていくしかないのだけど、大人なので真から思い込めるだけの「幻想強度」が必要となる。「確からしい」感覚を高めていくほどに実在性を心のなかで持つことになるが、人によって効く「ツボ」が違う。それは見せ金であれ、コミュニケーション技法であれ、第三者の同調や共感であれ、オカルトやアルコールやその先を使うのであれ。

 人には私的現実と公的現実があって、私的現実において「確からしい」となるための閾値は人や話題によって大きく違う。証拠としては著しく不足しててもベタな私的現実として、自分の中だけで正しくなってしまう事は多々あるし、その仮説を個人間でやりとりすることもある。ギャンブルの必勝情報とか、誰彼は付き合ってるだとか。でも、それを公的現実にするには一般的には科学的な手続きが必要となるのだけどよく出来た仮説であるほど手続きがショートカットされていることが多い。

 それと補完的に「殆んど興味がないけど、とりあえず」という受け手側の状態があって、するりと事実として入ってきてしまう事がある。先の「高橋焼き肉事件」の真相は僕にとってはどうでもよいことだし、「お話」を信じた方が面白いのだから、僕の中では事実になったままになってしまうのだ。大多数にとってはどうでもよい、それらしいお話の存在というのは面倒臭い。