モーニング。娘のDVD
前夜にツイキャスを聴いていて遅くなったことと、疲れが溜まっていた事が重なって昼間まで寝ていた。正しい休日である。実家に荷物を送ったものの、ダンボールのままで廊下に置かれていたので片付けていく。最大の問題はダンボール箱の中身が全部入るスペースなんて僕の部屋にはないことだ。
ダンボールの中身を出す前に、その分のスペースをゴミとして排出する必要がある。なんだか新陳代謝のようだ。実は元モーヲタなので、モーニング娘。関連のDVDを大量に実家に置いてきていた。今の僕はそこまでじゃない。徐々に疎遠になっていったけれど、それでもAKBに転向しなかった事については褒められても良いとは思う。ももクロには少し浮気したけれど。
永遠はないよ
これらのDVDは全て処分した。ちょうど『モーニング娘。'14道重さゆみ、秋ツアーを最後に卒業 - 音楽ナタリー』なんて事もニュースになっていて、僕の知ってるモーニング娘。が存在しなくなるというのも妙な気分だ。脱ヲタのために捨てようなどといったことではなくて、単純に今の自分が観るとは思えないし、居住スペースが足りないのだから仕方がない。
なんであんなに好きだったのだろうとなんて事は明確には分からないし、分かろうとしてはいけないのだろうと思う。つまり、当時の僕は矢口真里にガチ恋していたのだ。その愛を貫くのはあまりに難しかった。永遠はないよ。ここにないよ。
新陳代謝と永続性
海外で調査して、「こんなのが自生で生えていたよ」と言われるんですけれども、それがほんとうなのかわからない。それがたとえ100年前から…(略)ー西畠清順さんー元記事 http://t.co/IJxxHQkDCv [ほぼ日手帳・日々の言葉・2014年4月29日] #techo2014
— ほぼ日刊イトイ新聞 (@1101complus) 2014年4月29日
植物は「(昔から)自生していた」なんて言われて、調べてみると100年前に人為的に植えていたなんてことがよくあるそうだ。これって電子機器や、伝統芸能なんかにも起こることがある。本当に昔からあるものは少ないのだけど、昔からあるように思えてしまう事はある。
モーニング娘。は卒業と新メンバー募集の新陳代謝を繰り返していくことでメンバーよりもグループの概念の永続化を優先していた。現在のモーニング娘。の現在の正式名称は「モーニング娘。'14」なのだけど、これは内部が変化し続ける事を前提にするからこそ、年次によるスナップショットを作ろうという試みである。
彼女たちの神話化
僕個人からは概念そのものまでもが新陳代謝の対象になってしまったわけだけど、それでも名前を聞くたびに「思い出す」という事はあるのだろう。神話とは過去から何度も回帰してくる物語である。神話化の達成は、しばしば事柄と感情の心的複合<コンプレックス>によって「思い出す」という形を取る。僕が眼前に見ているモーニング娘。'14には当時のメンバーが在籍していないのにもかかわらず、主観世界においては矢口真里にまつわる色々な感情を同時に僕に向けて語り掛ける効用があるのだ。
この時に「思い出す」ための媒体は昔話からでは弱くて、変形されて存在する一見しては関連性が低い事柄が媒介となるほど、神話の立ち上がりとしては鮮烈となる。例えば紅茶に浸したマドレーヌの香りである。もう在籍メンバーも分からないし、グループ自体もどこまで残るのかは分からないけれど、その神話化の可能性の残滓のためにも継続し続けて欲しいとは思う。同じような事はテキストサイトやブログなんかにも思う事があったりもする。全く身勝手な話なのだけどね。