価値観の押し付け
最近になって「価値観の押し付け」について話題になっていた。僕は基本的には「価値観を押し付けるべきではない」というデタッチメントの立場ではあるのだけど、それにはいくつもの前提が含まれていて、その前提のすりあわせがなされていないのではないかとも思ったから。
「仕事上の利害関係がなかったり、インターネットなどの限定的な関係性しか結べておらず、責任も取れないのであれば、望まれない限り、価値観を押し付けるべきではない」という命題であれば比較的受け入れられるだろう。絶対的に「正しい」ということではなくて、あくまで間主観的な倫理として正しいという点において。だけど、それ以外のパターンもあるのではないか。
価値観を押し付けてよいとき
例えば自我が未発達な状態の子供には親や教育者がある種の価値観を押し付けなければ社会生活が歩めないし、成人後であってもある種のコミュニケーションや業務を行う場合には、自己表現の前に一定の範囲で正しい共通解を踏まえる必要があり、そこで「価値観を押し付けるべきではない」なんて事を言えばネグレクトであり、倫理問題としてはむしろ正しくないと言えよう。
この時に押し付けられる価値観は論理的に完全に正しいわけではないけれど、それでも確率の問題と割り切って押し付けることが必要となる。つまり「相対的に正しい可能性が高い価値観を、その関係性にある人に押し付けるのは倫理的には正しい」という命題は一般的に受容される。
その上で一方的な押し付けだけではなくて、すりあわせとして30%や65%の押し付けという程度問題はあるし、価値観の提示だけして受け取り方は自由という事もある。複数人が暮らしていくのにあたって価値観がぶつかるところはすり合わせるというのが社会化活動である。
関係性・正しさ・押し付け度合いのミスマッチ
問題は、このような関係性・正しさ・押し付け度合いといった要素においてのミスマッチが起きていることなのではないか。例えば『あきまん氏がネット上で立ち向かう『アドバイス罪』とは一体何か? - Togetter』について、所詮はインターネットで見かけたり、一方的なファンという程度の関係性の人が、プロフェッショナルの考えよりも劣る可能性の低いアドバイスを作り、上から目線で押し付けて受け入れられないと激昂するみたいな読み解きが行える。
このあたりの話を暗黙的に考えると残念なコミュニケーションになる事が多い。大抵の人は相手にとって取るに足らない存在であるし、『他人の取る手段に明らかな問題があると感じるときは目指す目的が異なる事を疑った方がよい - 太陽がまぶしかったから』のような前提を踏まえなければ相手が正しいと思える価値観の提示もできないのだから、そこで押し付けたって、気分が悪くなるだけである。
法律や論理や統計的事実に頼れない命題であるほど、その人への尊敬や客観的評価という指標が必要となるという意味では当事者間の関係性が寄与するし、押し付け方にも「◯◯しない奴はバカ」や権力者の言う「普通は◯◯だろ」型などがあって、これをすると「一理あるかもしれないけれど、お前の態度が気に食わない」となるのが自然である。
個人的に好きな押し付け方としては相手を気にせずに自分だけが楽しんでる姿をチラ見せすること。ただし、これをするのは一種の狂信者化が必要になるところもあって、結果として「◯◯しない奴はバカ」型になりやすくもなる。特にベンチャー企業などの場合は「ハイテンションな自己啓発」によって、むしろそこを疑わないように人格矯正するから自己点検が難しくなる。
価値を押し付けるべきではない
以上のようなミスマッチが起きている時に「価値観を押し付けるべきではない」となるわけで、常に「価値観を押し付けるべきではない」というわけでもないが、「関係性を結ばずに価値観を押し付けるべきではない」が大抵は正しい。真理の相対性は大前提として。
そして、この「関係性」について勘違いをしている人が多いのではないかとは思う。『承認欲求と包摂欲求についての一見解。または「あ、承認とかいらないんで、とりあえずお金下さい」 - 太陽がまぶしかったから』においても、「あ、(あなたの)承認とかいらないんで、とりあえずお金下さい」という話を出した*1のだけど、正しい手続きを経ずに「自分が承認する」事と「相手の嬉しさ」が相関するという事を疑えない自意識が透けるのは非常に気持ち悪い。
他人に押し付ける時は、自分がそれに足る人物として相手との信頼関係を結べてるのかを考えた方が良いという「価値観の押し付け」をしたい。これを読んだ人が僕のことを信用できず、正しいロジックだと思えず、押し付けだと感じるのであれば聞き流してもらって別に構わないけどね。
フィードバックがないのも困る
僕はある種のコミュニケーション不調について考えるのが好きで、そうならないように、なるべくはマシにしたいとも考えているのだけど、その時に「完全なデタッチメント」をされるのが一番困る。僕が孤独をこじらせるのが嫌なのは、自身の思考やコミュニケーションなどが間違えている事を矯正できる機会がなくなっていくからである。「人それぞれ」と表面上では許されつつも、「もう、あいつを呼ぶのやめとこうよ」みたいに物理的な疎外をされていくのは寂しくて悲しい。
独自の価値観を複数人に提示しつつ、聞いてもらえないならしゃーないってのはブログなどではやりやすいことだし、煽り口調であっても大した問題ではない。だけど、1対1で話すとどうしたって、ある程度までは期待が生まれてしまうわけで面倒に感じる部分はある。『ブログにコメント欄を用意しないのは「一般意志2.0」を実現するため - 太陽がまぶしかったから』におけるコメント欄閉鎖の理由もその辺にある。
Twitterの非公式RTは「私へのリプライ」よりも「フォロワーへのつぶやき」という側面が強いので、無理に応答しないようにしているのですが、ブクマコメントやTwitterコメントも非公式RTと同じぐらいの立ち位置にあるので応答義務を感じにくいです。
勝手に「義務感」を感じてしまうような仕組みを作ると、それを裏切る際に意志力チャレンジが発生しますが、そんな事で意志力を消費したくありません。一方で他者の意見は積極的に自身に取り込みたい。その落とし所として、コメント欄は用意しないが、Twitterやブクマは一切制限しない*3という態度が丁度良いのではないかと考えています。
価値観を押し付けるのであれば、関係性・正しさ・押し付け度合いのパラメータを点検してから試みないと実際には変わらないどころか依怙地になって、嫌な気分と関係性の悪化だけが残るという話。関係性に胡座をかいてしまうのも良くないのだけど、それはまた別の機会に。
価値観を提示するのはよいけどスルーされても怒らない
ずっと「うまいこと言えない」ことは、弱さだった。大人の前で子どもは、男の前で女は、国家の前で民は、人間の前で犬猫は、知識の前で非知は、弱いものだった。そして「うまいこと言う」ことは…(つづく)ー糸井重里ー [ほぼ日手帳・日々の言葉・2014年3月16日] #techo2014
— ほぼ日刊イトイ新聞 (@1101complus) 2014年3月15日
(つづき)武器であった。しかし、その弱さを蔑ろにしたことこそが、武器を使う人間の弱さであり、落し穴なのである。ほんとうは、世界は、まるっきり「ひっくりがえし」なのだと、吉本隆明は言い続けた。ー糸井重里ー [ほぼ日手帳・日々の言葉・2014年3月16日] #techo2014
— ほぼ日刊イトイ新聞 (@1101complus) 2014年3月16日
「うまいこと言えないなら黙れ」ってのはあんまり良いことじゃなくて、自身の価値観をある程度は押し付けがましく提示するのも構わないけどスルーされて当たり前という前提の共有と、公序良俗に反することをすればペナルティがあるよって話なんだと思う。なかなか難しいことなんだけど。