楽しい時間を効率的に過ごすのは勿体無い
昔は結構なゲーム好きで、特にあまり研究されていないようなゲームで勝つのは得意だった。その一方で将棋や麻雀になると蓄積の差が如実に現れてしまって上手い人には歯が立たないという事も学んだ。
もちろん棋譜などの研究をしようと思えば出来るだけの環境は揃っているし、中級レベルぐらいにはいけるとは思うが、そこまでするのはあまり好きじゃない。基礎知識は身につけるけれど、そこから先は独自法則を自分で見つけていく過程が楽しい。それらをあらかた掘り尽くして収穫逓減が起こり始めたら飽きてくる。
そういうスタンスなので、そもそも「楽しい時間を過ごす」が報酬であるような事物に対して、「効率化」を他人に教えてもらうのは勿体無いように感じてしまう。楽しめる時間や可能性が減ってしまうばかりではないか。もちろん一定の定跡を踏まえた上での工夫にこそ価値があるのだし、「勝てないからつまらない」という気持ちも分かるのだけれども。
ぜーんぶ知ってしまうと、それで終わっちゃう
ぜーんぶ知ってしまうと、それで終わっちゃうから。たのしみを残しておかないと。なんていうの? 男と女みたいなものですよ。愛するというのは…(略)ー糸井重里ー元記事 http://t.co/SgdGit16vz [ほぼ日手帳・日々の言葉・2014年2月14日] #techo2014
— ほぼ日刊イトイ新聞 (@1101complus) February 14, 2014
僕が「殆んどの混沌は混沌のままであるほうが良い」と主張するのは、ある意味では好きでいられる可能性や時間の期待値を増やしたいからである。それは「自分で発掘したいから」であって「綺麗なところだけを見ていたいから」なんて話はむしろ逆だ。
終末に向かっているのかもしれない週末
雑に無価値と判断すれば主観的な快楽資源を無駄に蕩尽してるに過ぎず、メタに考えれば非効率的である。意味や価値は主観的な過程にしか宿らない。日は朝から大雪で劣悪な通勤環境に朝から疲れてしまった。今夜はいぬじんさんと雪の降り積もったエイチズバーでダンスを踊る予定だ。
少々、物事を効率的に進めすぎてしまったのではないかと思う時もある。僕にとっての「楽しい時間」はそろそろ終末に向かっているのかもしれない。この雪によって邂逅がなされないのであれば、それはそれで運命のようなものなのだろう。