日記らしい日記を書いていなかった
しばらく日記らしい日記を書いてなかった気がする。なにをもって日記というのかは分からないのだけど。今日も朝起きて、会社に出掛けて、仕事して、帰ってきた。普段と違うのは雪降って電車が遅れて帰るのが遅くなったぐらいか。昼は298円のおにぎり弁当を食べた。
帰りに吉野家で牛丼・卵・けんちん汁を食べた。50円クーポンを適用して400円。相変わらずなんだかおかしな気分になる。豪華なランチを食べれば1,000円!って感じなのに、腹具合で言えば牛丼もあまり変わらない。吉野家のけんちん汁は野菜が多くて結構好き。豚汁だと肉がダブってしまうし、30円高い。
お金の使い道が変わってきた
400円の食事のうちの30円を気にするのに、音楽に1,500円ぐらい使うのは気にしないというのは残念な金銭感覚という見方もあるのだろう。CDは殆んど買わなくなったけれどiTunesではそれなりに買っている。紙の本は買わなくなったけれど電子書籍は買っている。
それは物理的なモノじゃないとお金を払わないという人と逆の生態になっているのかもしれない。僕はすぐに消えてしまうものは勿体ないと感じてしまうし、逆に片付けが大変になるようなモノはあまり増やしたくない。そう考えるとデジタルデータにお金を使いたくなってしまう所がある。もちろん互換性などの問題はあるのだけど、iTunesとKindleに決め打ちしてれば、よっぽどのことがなければ大丈夫だろう。これまで買ってしまってものに関しては嫌な気分になっているのだけど。
本当にお金を払うべきは所有でもデジタルでもなく
おそらく、人形アニメーションという手法は「ひとつの行為や動作を印象的に、象徴的にやらせる」ことにすごく向いてるんだと思うんです。だから…(略)ー峰岸裕和さんー元記事 http://t.co/EvTRm9nuZW [ほぼ日手帳・日々の言葉・2014年2月4日] #techo2014
— ほぼ日刊イトイ新聞 (@1101complus) 2014年2月4日
そういうわけで、「フィギュア」のような趣味は僕には殆んどない。おまけについてきたようなモノは持っているのだけど捨てられなくて難儀している。やっぱり人形というのは情念がこもっているように見える事もあるし、腕が折れたりしているのを見過ごすのは難しい。捨てる時には覚悟がいる。
そんな感じになるなら最初から手に入れない方がよいのだろうと思って敬遠している。昔スーパードルフィーという高価でリアルな関節人形のファンの人と話していて面白かったのだけど、値段より何よりもその辺の億劫さを超えていくところに尊敬というか、一種のオリエンタリズムを感じた。
できれば物理的な所持物は最低限にしたいのだけど、そのような物を見ている分には楽しい。だから管理を含めて「所有」しようというのが間違っていて、時々眺めさせてもらうぐらいがちょうどよいのだろうと思う。それは写真やデジタルデータじゃダメで、そういった管理された物理存在のシェアにちゃんとお金を払うようにしていった方がよいのかもしれない。美術館とか郷土資料館もそうか。