「非日常」を起こさない意志力
ここのところ実家に引きこもっていることもあって、なんていうか「非日常」な事なんて何も起こりません。考えてみれば、昔からそういう傾向があって、小学生の絵日記にも、せいぜい「何のゲームをしていたか」しか書けませんでした。
白紙の絵日記帳を眺めて、「いやだなあ」と思ったのを今でも覚えている。
今にして思えば、友だちと遊んだことなどたわいもない「日常」のことを書けばよかったのだが、当時は何か「非日常」の出来事を書かなければいけないような気がしていたのだ。
いくら夏休みでも、そうそう非日常的な出来事が起こるわけではない。
したがって、書くことがない。
書くことがないのに、書かなければならない。だからいやになる。
僕の人生は、これまでも、これからも基本的には淡々と過ぎていく事を願っています。「こころからやりたいことなら、どんなにキツくても大丈夫」というテーゼは、「こころからやりたいこと」がない以上は成立しないのですし、そもそも仕事や趣味や恋愛ごときに普段の生活が侵されるのが好きではありません。
だからブログに書くことがなくなっていきました。非日常な事なんてそうそう体験できませんし、したくもありません。
ブログを書いていくわけ
『下位承認欲求とコモディティ化願望 - 太陽がまぶしかったから』についても「非日常」を起こしたくないというのが動機の大半です。実際問題として非日常なイベントなんて殆ど起きませんでした。何をもって「日常」と定義するのかはまた難しいのですが、無作為に抽出した100人の体験をOR演算すれば、そこにほぼ全てが包含されるぐらいの感覚ですかね。
それでも「ブログを書こう」と思ったのは、どういう事なんだろうかという点に立ち返る事があります。「ブログに書くためにイベントに参加する」とブロガーとしての自分より、当事者としての自分のが楽しくなってしまうので、「ブロガーとしての矜持」があまりない事も書いてきた通りです。なので「ブログに書くために過激な事をする」なんて事は考えられません。
それで思ったのが、「むしろ物理的な日常を維持するためにこそ書いているのではないか」という事です。普通の出来事について、さも特別な体験であったかのように語るのは上手くなったような気がします。本当にそんな大袈裟に考えているわけではないのだけど、連想ゲームをしているうちに話が大きくなるのです。
劇化能力は物理変動を抑えるため
普段の生活があまりに退屈であるという正しい認識に立てば、仕事で色々頑張ってみたり、歓楽街に行ってみたりするようになるのかもしれませんが、あまりそんな気分にはなりません。
僕はとても遅く眠る。僕は65%自殺する。僕の生活はとても安上がりだ。僕にとって生活は30%しかない。僕の生活は生の30%を占めている。それには、腕と、紐と、いくつかのボタンがない。
— TristanTzara (@TristanTzarabot) 2013年12月6日
(僕の生活の)5%は、貧血性の火花をともなった、なかば醒めた昏睡状態にゆだねられている。この5%がダダと呼ばれる。それゆえ生活が安くあがるのだ。死はもうすこし高くつく。けれども生活は魅力に満ち、死もまた魅力に満ちている。
— TristanTzara (@TristanTzarabot) 2013年11月3日
僕の65%は「自殺済み」であり、ゾンビパウダーを摂取しながら反射行動を続けています。そして5%を占める貧血性の火花をともなった、なかば醒めた昏睡状態によって、30%の生活は魅力的になります。
「日常」を維持するためにブログを書いているわけで
自殺した65%は現在のところ仕事に吸い取られており、仕事がない時は昏睡状態となります。この65%の活用方法については考えるべきなのかもしれないし、放っておくべきなのかもしれません。少なくとも昏睡状態で働けばお金が増えるし、何もしなければ安くあがります。
そして僕自身が「生活を安くあげたい」理由は「非日常」に巻き込まれたくないからであり、それでも出てくる「非日常」への誘惑は5%の劇化能力によって抑えられれば、物理的な日常と認識上の非日常が安全に訪れるスキームが構築できそうです。俺は平和で安寧とした生活が送りたいだけなのにやれやれだぜ。