「◯◯すべきではない」問題
相手の言葉を受け止めてつつも無相関に行動するのは本当に難しいという事をよく反省します。どうも僕は相対論で終わるような事に対する「◯◯すべきではない」の意図を感じる主張が好きではないようで、その結果として『「みんなにウケるのに個性的であってはならない」というけど「みんな」って誰でしょうか? - 太陽がまぶしかったから』など「『◯◯すべきではない』という主張はすべきではない」という主張ばかりしてしまう所があります。当然ブーメランです。
それは「好き/嫌い」の問題を、「良い/悪い」に変換してしまう暴力性にカチンときたり、時限制で気付くような話に口を出せば、結果として逆張りを誘発するんじゃないかという面倒を感じるからなのだろうと思います。『「老害の本質」は正しいフィードバックを受けられないまま固定観念を強めて他者に「呪い」をかけること - 太陽がまぶしかったから』といった事への反発もあります。
意見の好き嫌いと主張する権利
フランスの哲学者ヴォルテールは「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」と言ったとされますが*1、そういう道徳観に染み付いています。あとは単純な多様性礼賛でしょうか。
ちなみに「嫌い」「苦手」を表明する事自体には問題を感じないのですが、先輩や取引先など実質的に「◯◯すべきではない」という権力を持ってしまっている場合は難しいところがあると考えています。これは id:inujin さんの『楽しいことが、話せない。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。』の話にも通じると思います。
「相手が不快だと思うかもしれないから◯◯すべきではない」と相手に「自粛」させる可能性が高いのであれば、意図はともかく「◯◯すべきではない」という主張に変貌しているとも思うのです。僕自身にも歪な「権力」が生まれている時と場合があって、気軽に「嫌い」「苦手」と言えない場面だったのかもしれないと思う事もあります。
「逆張り」や「仕方ない」の独立性
それはさておき、他者に「◯◯すべきではない」と言われたからこそ「逆張り」や「仕方ない」を表現するのための理屈を考えるのは、結局の所で他者の欲望に依存しているわけで、逆説的に自身が真に望んでいること、ましてや自身の現状とは無相関になります。この辺りについては、なかなか難しい混同があるのだと思います。
本当に寂しいのは「私」ではないし、ブログ論が好きなのは「僕」ではありません。もちろん部分的に共感する状況はあるけれど。『自由でありたいと宣言する事は自由でない現状を肯定している(とされる場合がある) - 太陽がまぶしかったから』では「部分的同意」によって他者の欲望が僕自身の欲望にすり替わって第三者に認識される現象を書きましたが、逆張りや諦観の宣言も結局のところで他者の欲望に依存して作られたものです。