「努力が報われる社会」は「諦めの先」?
読みましたー。諦観によって会社を辞めたりとドロップアウトしつつも、その先にあったのは案外努力が報われる社会だったという事ですね。その感覚は良く分かります。
普通に若い人でも気づいてるぽよ。
自分はどんなに努力しても、これから先給料は上がらないだろうってことに。
努力で給料は上がりますか?
上がりませんよね?
じゃあ努力を強いるのはやめてくださいよ、一応頑張りますけどね?
残業します、はい、はい。
みたいな。
(中略)
こう考えると、努力が報われる社会って、諦め、脱落の先にあるとも言える。
あくまでも現時点で報われているってだけかもしれないけれど。
おいらも今フリーだけど、会社員の時と比べてイヤイヤすぎて吐きそうな努力っていうのはしていないんだよな。
社内の人間関係に気を遣ったり、毎朝決まった時間に起きて出勤したりとか。
受注して作業して、夜中までかかってやることもあるけれど、努力はある程度報われているのかなあと思う。
バッドエンドのその先へ
かつての私はそれなりには努力をしてきたと思いますし、相応の結果は積み上がりました。ちょっとだけ努力が報われたのでしょう。でも現時点においては、体調不良の件などもあって努力が難しい状態にあるのも事実です。
なんとか代休が取れたら昼から呑んだりしてしまいますし、休日にしていた資格勉強なども疎かで、インターネットや漫画に生きている時間も増えました。そんな事ができているのも、そこで頑張ったところで結果には大差がないという楽観があるからです。宿命論をむしろ良いものとして受け入れている部分もあるのです。
例えば資格をとっても給料が1%上がるかどうかの話ですし、それを元に転職をしたところでもっと酷くなりそうな状態にあることも分かっています。そもそも技術スキルも相当落ちてしまった実感があるので、現場に戻りたいから云々という動機も発生しません。そんなんだとリストラ部屋云々といわれても、クビを宣告されたら会社都合退職にできる良い機会です。
常に意識高くいるのは難しいが、効果があるなら動いてしまう
逆に頑張れば頑張るほど給料があがる状況だったら体調不良などを隠して徹底的に働いてしまうかもしれません。昔の自分にはそういうところもありました。会社から徒歩2分の場所に引っ越して毎日深夜2時まで働いていたこともありますし、休日も会社に来ているか、資格勉強に使う事が多かったです。
今となってはその頃の無茶が身体に響いているのだろうと思います。当時は給料がガンガン上がっていた感覚もありましたが、年功序列などを除いて純粋に努力分が寄与して増えた手取り金額の累計額なんて楽観的に見ても百万円かそこらでしょう。もちろん大金ではあるのですが、長い目でみたらそれほどの話でもありませんし、求められる事はさらに増えていきました。転職でその実績もリセットされてしまいましたが。
そういう感覚があるため、過剰に頑張ることについて疑問を抱くようになりました。ストックオプション制度で5千万円であったり、夢の達成という自己承認の話などであれば別でしょうし、そのために超頑張る人生も良いと思います。でも、そうなると午前3時まで働いてしまうであろう自分もありえたのかもしれません。諦観があるからこそ、適当なところを手を打ててきたのだと思います。
報われ度の式は場合によって異なる
これにはグラデーションがあって、例えばフリーランスであっても「頑張れば頑張るほど」といいつつも月30万が月35万になる程度であれば一定のところで手が打てるみたいな均衡点がそれぞれにとってつけやすいのです。仮に「報われ度=努力係数 × 努力 + 最小値」のような単純な比例式であったとしても努力係数が十分に小さい場合は緩やかな宿命論と大差がありません。ご紹介したエントリの感覚はこちらに区分されるのかなと思いました。
「努力が報われすぎる社会」として考えたいのは、この式における「努力係数」が高すぎたり「報われ度=努力^4」みたいな式になってしまった場合の話です。これは実際に社会がそのようになっているかどうかには関わりません。あくまで、その幻想を信じさせる言説が溢れることで今後の行動が変化していく側面があるものと思われます。
階層別の結果平等に救われてきた
私自身はエンジニアだったので、大きなコミットメントがないというのもあるとは思うのですが、階層別の結果平等に救われてきたところはありました。平均値でみたら中の上にいたような自負もありますが、場面場面では入院や旅行で1週間休んだり、赤字プロジェクトになってしまった時も、給料が下がったりしなかった事に感謝しているところはあります。
これは別に一度決まった階層は変わらないという話ではありません。一定の範囲の変動については吸収するように会社や社会ができているからこそ、下側に振れた時に助かった側面もあるということが言いたいのです。よって上に突き抜ける努力を否定するつもりは全くありませんし、どんな事をしても下に落ちないということでもありません。ただ、「努力が報われる=上に上がれる自分」しかイメージできない人は少しだけ自己評価を疑ってみるのも良いように思われます
「有給を取らない努力が報われる社会」
有給買い取りの話もありますが、休まなければ休まないほど給料が上がるなら「私は休まない」という方向に舵をとってしまう愚かな事も起き得たと思います。それによって、今後の人生に体調不良という大きな負債を抱えてしまったら元も子もありません。
id:dennou_kurage さんは『有給休暇の買い取り解禁で本当に年収は上がるのか - 脱社畜ブログ』において「いずれ有給の買い取りを前提とした金額に、賃金が調整されるであろうことは誰にだって想像できる。」という指摘をされていますが、まさにそうなってしまう可能性があると思われます。多少は増える可能性があったところで「有給を取らない努力が報われる社会」なんて望みたくもありません。あくまで抜き打ち調査などを前提として、有給取得率への是正勧告をすべきでしょう。
適度に報われる社会ってどのぐらいなんだろう
「努力が報われすぎる社会」は「努力をしなければ報われない社会」です。だから努力するなという話では全くないのですが、あまりに相関しすぎるのも考えものかもしれません。そして「努力が報われすぎる社会」は、あまり良い状態にない人を「努力をしなかった人」や「努力ができなかった人」という罪人として疎外しやすくなります。
人には出産や育児を含めて仕事や学業以外にもすることがありますし、体調不良もあれば、多少は自暴自棄になる事もあります。そのようなことすら許さずにいられない社会が幸福な社会なのでしょうか。「努力をしても報われなかった自己」をありえた自分の死体としてイメージできるからこそ、他者に優しくなれる部分もあるのではないでしょうか。「努力は報われるかもしれない」ぐらいの立ち位置でちょうどよいのです。少し極論になってしまいましたが、そのような事を思いました。