どうでもよいことだから書ける
ここ数日の流れについて、勝手な思い込みや誤解を前提にしてるとしか思えない事を書かれて、あーあって気分ではありますが、「どうでもよいこと」だからそれでもよいかって思えてる部分はあります。
もちろん個人的には大切にしたい概念ではあったのですが、それは個々人の心のなかにしまっておけば十分です。思わぬ副作用もあったのは事実だし、その事について語るのも野暮だなーって感じになってきました。
カーニヴァル化
本質的な目的意識なんてないからこそ、外部から規定された本来的には「どうでも良い事」についてさも重要そうに意味を見出してアイロニカルに没入し、仮想的な実存を賭けてカラオケ大会をする事について、社会学者の鈴木謙介さんは『カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)』と表現しています。
フーコーが「パノプティコン」と評したように、近代社会においては自身の内面に「あるべき姿≒ありたい姿」を作って、そこに至らない自己との差分を埋める形で「今でしょ!」の運動量を規定していました。しかし現代では、むしろ「外部」との関係性によって発生する力学によって演じさせられ続ける「自己」があるだけです。そこに誰がいようが「その役割ならそうせざる/そうならざるをえない」といった代替可能性を内包した即興劇を続けているだけです。
デートはマニュアル通りに遂行され、メンヘラは男性遍歴を開示し、社蓄はより従順になり、2chで晒されれば誰だって鎮圧は難しい。そうした「生贄」に自身が偶然にも選ばれなかった安堵感とともに「カーニヴァル」は刹那的に消費されていきます。その傍観者気取りの消費者こそがカーニヴァルの主役です。それでも具体化された目標が描けない我々は「試してみることに失敗はない」といいながらハムスターのように円環を嬉々として回ります。
無意味の意味
そこに意味なんて最初からありません。でも本質的な意味がない事をするのが趣味であってという思いもあります。場末の仮想的なスナックでカラオケ大会に興じてる事について、「地下アイドル!」というのは全く正しいのですが、「お前平田だろ!」をまた言われた感じで(´・ω・`)です。スーパーストロングマシンだって言ってるでしょ*1。
ストレッチプラムと冬木スペシャルには「指一本分の角度の違い」があります。その指一本分の違いについて延々と語っているのは無意味だってのは確かですが、粗雑に「同じようなもん」って言われるのもカチンと来ます。だから、どんなに丁寧に説明したところで無意味だというアイロニーがありつつも語り続けます。それ自体が楽しいし、傷つく人も少ないだろうという安心感があります。
でも、自身の実存すら危うくするような話題であれば、説得するよりも先に殴ってしまうかもしれません。そうでなくても論理より実存を優先した屁理屈を言ってしまう事になるでしょう。私自身は基本的にノンポリかつ無神論者なので、特にそういう話題も問題ないのですが、そうじゃない人もいるのでしょうし、自身では積極的に語ろうとは思えないジャンルはあります。
逆にどうしたいの?
逆に何かの意味を見出した人って、なにをどうしてるのだろうかという疑問があります。世論を変えたのですか? マネタイズできたのですか? 法律を変えたのですか? コップの中の嵐のグラデーションに過ぎないと思えるのですが、きっと「あいつらとは違う」のでしょう。
それこそ「指一本の角度の違いに見える」と言うのは傍目からの傲慢でしょうから、教えてほしいのです。別に攻撃がしたいということでなくて、逆に宿命論に陥らない方法を知りたいのです……自分でもなんの話をしてるのかよくわかりませんが、今日はお酒を呑み過ぎました。