太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

社会という連帯保証人への債権回収を継続させるために墓標<エピタフ>を刻み続ける話

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photo by @Doug88888

死への過程

 厭世主義でも虚無主義でもないのですが、現在も絶え間なく死に向かっているのだという感覚が強いほうだと思います。それは体調を崩したからとか、震災があったからとか理由付けは色々とできるのでしょうが、その場の後付けでする自己言及に正当性があるわけもありません。「死ぬのが怖いか」と言われればそうでもないのですが、その前にあわよくば「社会への取り立て」の目処を立てておきたいという欲望が少しだけあります。私のブログには「債権感」「不良債権感」という言葉が頻出しています。

 私自身はいわゆるロスジェネ末期の世代であり「期待して裏切られた世代」と言われています。確かに「頑張れば報われる」と言われて頑張ってみれば「頑張っても結果がついてこない」が僅かな時間差で繰り返されてダブルバインド化していきました。就職氷河期をくぐり抜けて、なんとか就職してからも激務化、増税、経費削減、給与カットなどの時期に当たってしまい「来年まで頑張れば」と言われて信じても「去年までは会社負担だったけど、今年からは自己負担ね」みたいな扱いをされる事が多かったように思います。

今の30代は何かを期待して裏切られた世代。たくましく生きる覚悟はあったのに、2000年代に厳しい現実に直面して「やっぱ無理だった、一生懸命やったけど、何にもなんなかったじゃねえか」と怒っている。同時に「自分の努力が足りなかった」という自己責任感も強く引きずっている。逆にその下の20代はハナから「期待するな」と教えられた世代。もっと冷めていて保守的だ。


毎日jp(毎日新聞)毎日jp(毎日新聞)

 社会全体のパイが少なくなっていることを意識しながらも、それでも今はこの道しかないとしてパラノイア的にサバイブしてきたつもりですが、結果として残ったのは孤独と体調不良と僅かな資産です。期待なんて本当はしてなかったけれど、他にできる事もなかったので再帰的に期待を作りあげて債権感を勝手に積み上げたところで返ってくるわけもありません。


 自分の中では30歳までには出来る限り上にあがって、そこから先はグライダーに乗るような生活をしていこうと思っていた時期があります。キャリアプランニングの話でも、「人生の前半は山登りで、後半は山を降りていく」なんて例えはよくされています。なんで当時は努力が苦にならなかったかと言えば「後で楽をしたかった」という下心ありきなんですよね。決して勤勉だからではないのです。プログラマーの三大美徳は「 無精」「短気」「傲慢」なのですが、「無精」で「短気」だからこそ事前に苦労してでもプログラムをしておきますし、それができるという「傲慢」さもありました。今になって思えば、その考えを人生にまで適用してしまったのではないかと思います。

社会という連帯保証人

 
 個別に取り立てたところで、そもそも借りたとすら思っていない人々から返ってこない事なんてのは自明です。自身のなかにある「債権感」や「不良債権感」については『レ・ミゼラブル (上) (角川文庫)』の神父のように「最初からあげたもの」として債務不履行を認めて、あるがままの自分を受け入れるべきです。そんな事を言いたいのは山々ですし、普段はそう思っています。でも、そんな割り切りが簡単にできないのも自分です。イケダハヤトさんが『http://www.ikedahayato.com/index.php/archives/20216』という文章を書いているのですが、その気持は分かる気がします。

「社会への復讐」をすることに対して、「おまえはその社会に生かされているんだ!」という批判を繰り出す人もいるでしょう。それはその通りなのです。


これはぼくの言葉ではありませんが、創作者はそうした復讐を行う特権を持っている、と考えられます。

おびただしい人々が芸術家に憧れるのは、私の考えでは、好きなことができるということのほかに、まさに社会を軽蔑しながらその社会から尊敬されるという生き方を選べるからなんだ。社会に対する特権的な復讐が許されているということだね。



ちなみに、引用した中島義道氏の作風は、まさに「社会への復讐」です。自伝的な「孤独について」にいたっては、その矛先は肉親にまで及びます。好き嫌いは激しく分かれますが、圧倒的な怨念と覚悟を感じさせる、すばらしい作家だと思います。


ぼくの創作活動の半分は「社会への復讐」でできています - ihayato.書店 | ihayato.書店ぼくの創作活動の半分は「社会への復讐」でできています - ihayato.書店 | ihayato.書店

社会という連帯保証人への債権回収

 でも、私は「復讐」がしたいわけではありません。「やられたら、やり返す」という話であれば自分の顔と拳の両方が痛くなってしまいます。あくまで債権回収という「取り立て」がしたいのです。そのうえで自身の債権感の解消のみが目的であるため、相手の債務が消えるかは問題としません。よって社会全体で連帯保証人になってもらった方が合理的だと考えています。

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 サラミテクニックへの幻想はそれなりにあります。例えば「100万円」について借りたとすら思ってない人々のうちのひとりから返してもらうのはほぼ不可能でしょうが、長期的に考えれば10万人から10円づつ返してもらう事はできなくもありません。広告などを用いて個々人にとっては10円を払ったとすら思わないまま10円を発生させて集めればよいのです。

 お金であればゼロサム・ゲームになってしまう部分はありますが、承認であれば、相手のマイナスを一切発生させなくても債権感の解消が可能です。互いに愛するのであればサラミテクニックですらなくWin-Winになるでしょう。もちろん、そんな簡単な話ではありませんし、騙して儲けようみたいな気もさらさらないのですが、絶対に返ってこない回収作業に心をすり減らしたり、債権放棄に後悔し続けるよりはマシなのではないかとも考えています。かといって当事者からの返済を期待するのは無駄なので、「社会という連帯保証人」から少しづつ返してもらう事に期待したいというわけです。

インターネットに生きること

 『http://www.ikedakana.com/entry/2013/10/18/074058』において、『ジョジョの奇妙な冒険 8~17巻(第3部)セット (集英社文庫(コミック版))』でいう所の自分とは独立して駆動するタイプのスタンドが出来上がっていく事について書きました。

 福沢諭吉は「一身にして二生を経る」と江戸時代と明治時代の両方を生きた事について言いました。梅田望夫も『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)』において、2015〜2020年頃には日本社会もずいぶん大きく変わったと過半数の人が感じる時が来るという意味で「一身にして二生を経る」と表現しています。


 これらはパラダイムシフトの話です。しかし、現在は少し違っていて、AというコンテキストではパラダイムX、BというコンテキストではパラダイムYというように『私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)』として分化したパラダイムを共存させるという意味で「一身にして二生を経る」が可能になったのではないかと考えています。


(中略)


 しかし「かれら」は既に読者を動かしたり、自身の承認欲求や僅かながらのお金を稼ぐだけの能力を持ってしまっているというのも嘘ではありません。仮に私が事故にあったり、やる気をなくして一切のブログ更新をやめた所で、ある期間までは動き続けて誰かに何らかの影響を与え続けることにはなるのでしょう。まさに自身の傍らに立って勝手に動き出すことで「一身にして二生を経る」が同時並行で行われるようになるという事です。まぁ「かれら」は「わたし」に養われているニートみたいなもんだけどね。


「ブログは傍らに立つ(Stand by me)ものであり、困難に立ち向かう(stand up to)ものである」などと言っているのが楽しい - 太陽がまぶしかったから「ブログは傍らに立つ(Stand by me)ものであり、困難に立ち向かう(stand up to)ものである」などと言っているのが楽しい - 太陽がまぶしかったから

 それでなくても私のTwitterアカウントではbotに喋らせていたり、今後は予約投稿機能なども付くのでしょう。膨大な手記を読み取ることで、当人にとって意味のある文章を自動生成するような人工知能が開発されるのかもしれません。もちろん、既存の文章だって私とは独立して、なにかを動かす力を持ちます。債権回収業を自分の意識に住まわせ続けるのも精神衛生上よくありません。なので私とは切り離さた「かれら」によって私が死のう生きようが「遠い将来には回収できるのかも、もしかしたらプラスになっちゃうかも」なんて期待しながら死んでいくのは乙です。しげちーのスタンドである「ハーヴェスト」が私の存在とは独立して動き続けてくれる感覚。

 戦国武将などが自害する理由は色々あるのでしょうが、「名誉回復への期待を死ぬ瞬間まで維持するため」という動機も多かったのではないでしょうか。生きることは緩慢な自殺をし続けることです。あと50年間生きるのはほぼ不可能でしょうし、それで全てを回収しきれるとも思っていません。でも、だからこそ遠い遠い将来の債権回収の期待ぐらいは抱いて死んでいきたいなんて事を思ってしまいます。死ぬ瞬間の期待までもが裏切られる事は認知できないので、そこへの債権は発生しません。それは醜いエゴなのでしょうがエゴを捨て去れない自分がいます。クサい台詞を言えば「ハッピーエンドを取り戻しにきた!」ってことです。