太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

「ブログは傍らに立つ(Stand by me)ものであり、困難に立ち向かう(stand up to)ものである」などと言っているのが楽しい

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photo by Amarand Agasi

ブログはスタンド論

 バンブルビー通信さん (id:bbb_network)の 『http://blog.bumblebee-network.com/entry/blog-is-a-log-on-the-web』にした「ブログはスタンド」というコメントから派生して色々な話が広がっていきました。

ウェブログ」だからね。自分の経緯とか、断片とかが徐々に力を持ってくる感覚はある。『ジョジョの奇妙な冒険』における「スタンド」って表現していた人もいたけど、まさに。

僕もジョジョの奇妙な冒険を読んだことがあり、スタンドというのはどんなものかは知っていましたが、それとブログがどのようにつながるのかが分かりませんでした。そこで、いつも通りあまり考えずにGoogle先生に質問をした結果、池田仮名さんが言っていたのはこのことだろうというブログ記事を見つけましたので、紹介したいと思います。

ブログはスタンドなのか ブログの特性がどう育っていくのかが楽しみ - バンブルビー通信ブログはスタンドなのか ブログの特性がどう育っていくのかが楽しみ - バンブルビー通信

 上記でも触れられていますが、元ネタは『すべてのブロガーはスタンド使い。ブログを「テクニックの先」へ誘うプロ・ブロガー本2の魅力について | Lifehacking.jp』です。

スタンドという能力は一人につき一種類です。そしてすべてのスタンドに特に秀でた点があって、それを使いこなせるか否かで、スタンド使いは強くも弱くもなります。


(中略)


すべてのテクニックを尽くした先に、どうしてもコピーすることのできない、ブログを書いている人の個性や抗い難い魂の形が立ち上がってきます。そう、「スタンド」です。
あるブロガーはすさまじい速さで記事を繰り出します。あるブロガーは予測能力が半端ありません。かと思うと、テクニックはほとんど使わないのにぐいぐいと読ませる異様さやすさまじさを持ったブログもあります。
この能力は誰もがもっているものかもしれませんが、わかりやすく発現させてブログに反映させることができるひとはまれです。逆に、異様な能力はあるのに、効果的に広めることができずにいるという人もいるでしょう。


すべてのブロガーはスタンド使い。ブログを「テクニックの先」へ誘うプロ・ブロガー本2の魅力について | Lifehacking.jpすべてのブロガーはスタンド使い。ブログを「テクニックの先」へ誘うプロ・ブロガー本2の魅力について | Lifehacking.jp

 自分でも何か書こうと思っていたのですが既にいくつかの視点で語られているため、補足的な内容について書いていこうと思います。

改めてスタンドとは

 スタンドとは『ジョジョの奇妙な冒険 8~17巻(第3部)セット (集英社文庫(コミック版))』においてスタンド使い本人の超能力を具現化した存在であり、「傍に立つ (Stand by me)」ことから名付けられました。一般的には人や動物の形をしていますが、無機物や思念のようなものであったりと、形はそれぞれです。スタンドという能力は一人につき一種類であり、それは『甲賀忍法帖 山田風太郎忍法帖(1) (講談社文庫)』から連なるカードゲーム型バトルロワイヤルを構成するためのパーツとして重要となってきます。

 少年漫画の表現においてはドラゴンボールのような「戦闘力」による一元的な数値によるインフレーション型が一般的でしたが、そのオルタナティブとして固定化された特性同士の相性とそれをひっくり返す知恵が重要となる作品が増えるようになりました*1

インフレーション型とカードゲーム型の対置

 これって、PV至上主義の流れでプロブロガーにまでなった人々と、個性主義として泡沫ブログを捉えている人々との対置に似ているのではないでしょうか。『http://www.ikedakana.com/entry/2013/08/29/225532』の通り、私の運営方針のひとつとしてPVを明らかにしない、必要以上に気にしないというのがあったのですが、前者のインフレーションに巻き込まれて特化していっても長い趣味として楽しめなくなるだろうという読みがあるからです。

 これは前者を否定する意味ではまったくありませんし、一日6hotでも個性ガーって話でもありません。ただ自身には分相応の注目量があって、成長に応じて徐々に増やしたり、一定範囲までで打ち切った方が気楽です。スタンド能力に応じた脱ピーターの法則ですね。人々が能力の極限まで出世すると、そのコンテキストにおいて「無能」となってしまうわけで、そこに嬉々として突っ込んでいく気はありません。その辺りのことは id:zuiji_zuisho さんにもチクりと刺されています。

 確かにキモいのは分かってるけど、その「呪い」は「やっぱりフラットな世界変態ランキングの上位5%には入りたい」みたいな話になって、PV至上主義的なところに戻ってしまうところがあると思うのです。その価値観を浸透させるほどスパムや炎上や情報商材で云々をする動機が増えるわけですし、アレやソレに機会費用が消費されてほしくもありません。

でもまぁ何かたとえば僕が気持ち悪いと思うものの一例として、たとえばですけど、人が何者かになりたい時、そしてそんな時に何らかの徒党が組めてしまった場合、その徒党の中でお互いを相対化してしまうことで何者でもないくせに何者かになってしまったような気分になって悦に入るみたいな傾向が人間には備わっているんですよね。たとえばいわゆるクラスで目立たない二軍男子の集まりがいたとして、その中で一番女子と接触する機会が多いやつがなぜかそのグループ内において「女にモテるキャラ的な雰囲気」になってるのをよく見かけたりしますよね一つも糞モテてないのに。たとえばただ取り立てて魅力がないからモテないやつらが集まっただけの非モテグループであるにも関わらずその中で一番暴言を吐くことに抵抗のない人間が「とんでもない変態キャラ的な空気」になることがあるわけですそいつは特段とんでもない変態というわけでもなくただただ魅力に欠けているからモテないだけなのにすごい変態なんだぜ参ったか的なポジションを獲得しているシーンがあるわけです。で、大体そういうのキモい。


ブログに求めることは、ンナッ、ンナッ、ンナナ何ですカーっはンッッカーッハ! - ←ズイショ→ブログに求めることは、ンナッ、ンナッ、ンナナ何ですカーっはンッッカーッハ! - ←ズイショ→

 何度か書いていますが、趣味においてまで「希少な資源の奪い合い」のみをリワードに設定しなきゃいけない状況のがどうかしてると考えています。インターネットは「村一番の物知り」を駆逐したと言われていますが、人は自身の「観測範囲」を超えるのは難しいですし、Gunosyやマイホットエントリーをはじめとして、それを強化するようにサービスも展開されていきます。泡沫ブロガーとしては徒党の中で自身のスタンドを活かしたカードゲームとしての信頼関係の中で勝ったり負けたりしたいので、そっち方向のプレイフィールドが過疎化するのは残念だと思います。もっと意識を低くしろ!と意識高く叫ぶといういつもの話ですが。

一身にして二生を経る

 福沢諭吉は「一身にして二生を経る」と江戸時代と明治時代の両方を生きた事について言いました。梅田望夫も『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)』において、2015〜2020年頃には日本社会もずいぶん大きく変わったと過半数の人が感じる時が来るという意味で「一身にして二生を経る」と表現しています。これらはパラダイムシフトの話ですが、現在は少し違っていて、AというコンテキストではパラダイムX、BというコンテキストではパラダイムYというように『私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)』として分化したパラダイムを共存させるという意味で「一身にして二生を経る」が可能になったのではないかと考えています。

 本来的な意味での分人は「自然と立ち現れる」とは言うものの、普段の会話やTwitterのような形でまで分化し続ける意志力を発揮するのは無理がでてきます。しかしブログや同人誌などであればそれが一定の範囲では可能となってきます。一旦書かれた記事は自身の身体を離れた別人格として動作し続けるため、私の状態とは直交化していきます。『ブログはスタンド!あなたのスタンド特性を把握してアクセスアップだ! - マトリョーシカ的日常』ではブログのスタンド特性について書かれていますが、自分はエコーズAct 3の様な自我を持つスタンドを意識しています。

分人化欲求

 なぜ分化させるのかについては色々とあるのですが、大きな要素としては「ありえた自分」を適者生存のために作るための方法論であり、既に作ってしまった「ありえた自分の死体」を供養するためのものでもありました。これは仮に「本体」が囚われているパラダイムに先が見えなくなっても、既に自身から作られた別のパラダイムにシフトするのはゼロからよりは楽だし、リスク低減ができるからです。なので『http://www.swatz.net/entry/2013/10/08/201914』が指摘する「ほんとうの自分」とはちょっと違うのではないかと考えているのです。

 しかし「かれら」は既に読者を動かしたり、自身の承認欲求や僅かながらのお金を稼ぐだけの能力を持ってしまっているというのも嘘ではありません。仮に私が事故にあったり、やる気をなくして一切のブログ更新をやめた所で、ある期間までは動き続けて誰かに何らかの影響を与え続けることにはなるのでしょう。まさに自身の傍らに立って勝手に動き出すことで「一身にして二生を経る」が同時並行で行われるようになるという事です。まぁ「かれら」は「わたし」に養われているニートみたいなもんだけどね。

敵や困難に「立ち向かう (stand up to)」

 スタンドの由来は「傍に立つ (Stand by me)」からだと書きましたが、実は『STEEL BALL RUN ―ジョジョの奇妙な冒険Part7 コミック 全24巻 完結セット (ジャンプコミックス)』においては敵や困難に「立ち向かう (stand up to)」ことからスタンドと呼ばれています。あらゆる事はゼロから妄想しているわけもなく、やはりそれなりの困難があったからこそ考えられた事を書いています。それは別にブログに限った事ではないのですが、「なんだか嫌だな」と思った時にそれを言語化するのは大切な作業だと思います。

 精神分析にはナラティブ・セラピーというのがあって、どうしてつらぽよなのかを自己言及的に述べさせていくわけですが、それが必ずしも真実である必要はありません。精神的外傷は真実を認知すればするほど辛さをが増していくという再帰性を持っているため、それを認識させるだけでは治癒にはなりません。「欲しいのはあくまで治癒である」という文脈においては問題そのものを解決するのではなく、問題を問題としなくなるような新しい物語を作り出してしまう事も求められています。それは『人は愚痴をこぼす生き物 - 雪見、月見、花見。』のように第三者による問題自体の共感がひとつなのですが、もうひとつの方法として「優越型寛容」があります。

 すなわち私のスタンドが持つ「お前のアルゴリズムは簡単に見抜けるよ?」という特殊能力設定から、こちらへの悪意や無能ゆえの行動を「プークスクス(^^)」に変換できるのです。それは真実の動作原理でなかったとしても、そこへの共感があれば癒やしは発生します。駄目だこいつ・・・早くなんとかしないと・・・スタンドがさらに強くなれば『オモコロ あたまゆるゆるインターネット』や『ネット民の過半数が陥る”俯瞰中毒”の症状とは? - トゥギャッチ』みたいな形にまでなっていくのでしょう。それが良いのか悪いのかは分からないというか、むしろ良くない気もしますが。

こんなブログにマジになっちゃってどうするの?

某『わかったブログ』の「人生成功ブログ必須論」もそうだけど、こういった言説がブログを始めるハードルを上げまくってるのと、実際にブログを書いてみて人生に別になんの変化もなかった時の無辜の民の落胆をでかくしまくってんだけど、「ブログ」をどうしたいんだろ。参入障壁を高くしたいのかな。

「ブログを書く」という行為のハードルをそんなに上げて、どうしたいの? - 世界はあなたのもの。「ブログを書く」という行為のハードルをそんなに上げて、どうしたいの? - 世界はあなたのもの。

 ほんとそうだよね〜 Σ(゚Д゚;エーッ!。前にも書きましたが評価経済圏だったりブログやソーシャルメディアがどうしたみたいな事の経済規模は当事者個人にとっては25分の1程度、全体においては100分の1もないと考えています。だけどコップの中の嵐だからこそできる無茶や楽しさがあるのだろうし、趣味としてほとんど元手が掛からないどころか、ちょっとプラスになるというのはなかなか良いと思っています。人生なんて変わるわけもありませんが、ちょっとした事に気付いたり、本を買える量がちょっと増えたり、そういうちょっとした+αを考える物語を紡ぐこと自体は悪いことじゃないのかなーって思います。時給100円とかなんだからオフバランスのメリットを考えて自発的やりがい搾取を正当化するぐらいいいじゃん。でも、それを大袈裟に喧伝しても仕方ないですし、大きな事を求めてる人は参入しない方がよいとは思います。

 まぁそんな感じで適当に考えたことを書くのが楽しいからやってるだけで、そんな高尚なものではないんですよー、もっと意識低くしましょうよーって書くための理由を考えて書いていくと、なんか意識が高いように見えてしまうというのがアレでゲスな。この辺は「いいひと」戦略について語るほど私が「イヤなひと」になるという話に似てる。

*1:これはそのままオンリーワン症候群などにも結びついているのですが、それはまた別途にしましょう