結婚話と「もう、戻れない」という感覚
読みました。「結婚とはするに値するものなのか?」という議論において、結婚した側としては幸せを感じる一方で「もう、戻れない。」という感覚もあるという事です。しかし、「もう、戻れない」というのはどんなことでもそうなのだからこそ、もっと色々やってみればよいのではないかとのことです。
だって、自分は坂道をゆっくりと転がり始めた石のように、もう二度と後戻りできない存在なのだ。
だったら、今のこの時間を少しでも楽しんだり、好奇心を満たしたりしたい。
後先のことなんて考えているヒマがあったら少しでもやったことのないものを試してみたいと願うようになった。
引き返せない楔
ある時代のパラダイム(社会通念)は、「その時代は何が豊富で、何が貴重な資源であるのか」を見れば明らかになるわけですが、この「パラダイム」は外的要因・内的要因のそれぞれによって変わってしまう事があります。いわゆる「パラダイムシフト」というやつですね。
そして「パラダイムシフト」が行われると「引き返せない楔」が打ち込まれて、以前とまったく同じ状態には戻れなくなると言われています。例えば、インターネットが浸透してしまってから、今更それを使うなとなっても何らかの形で復活するでしょうし、結婚をした後は夫婦を続けるか、離婚という選択肢しかなく、もはや未婚には戻れません。
これに対してデータベースでは入力が終わった後でも、それを「なかったこと」にする「ロールバック」という操作が可能です。しかし一旦「コミット」をしてしまうとデータが実際に反映されてしまって「ロールバック」が出来なくなります。コンピュータ上の事なのでバックアップから戻すことは可能ですが。
ある変化が現実世界に反映されるまでにはタイムラグがあるのですが、それが波及してから戻すのは非常に困難となります。だからこそ「なかったこと」にしたいという欲望は「タイムリープ」や「ループ」という形で数々のSF作品に反映されるわけですね。
「試してみることに失敗はない」のはロールバックできるから
「試してみることに失敗はない」とは『仕事は楽しいかね?』に出てくる言葉で、私の座右の銘です。「お試し」をせずに何かを語るのってやっぱり薄っぺらいと思いますし、それ自体が凄く楽しいことだと思うのですね。
何かをやってみて、それがろくでもないアイデアだとわかったとき、きみはもとの場所に戻ることは絶対にない。
必ず、何かを学ぶからだ。
学ぶべきことが何もなかった場合は、その前にしていたことに高い価値をおくべきだってこと。
そういう意味で僕は、試してみることに失敗はないというのは真実だと思っている。
大槻ケンヂの『サブカルで食う 就職せず好きなことだけやって生きていく方法』に出てくる「人生社会科見学」という言葉も同じです。これは取材がしたいからって話だけではなくて、そっちのが良かったら本当に「定住する」つもりでやっています。「ありえた世界」についての世界線移動を「お試し」することで、本当にそちらの住人になった事もありますし、元の世界線に戻ることになっても互いの差分を知ることで「うちら」の力学構造が鮮明に現れてきます。
1度きりの人生なので「こうすればよかった」と悶々と思い続けるのってもったいないと思うのですね。ただし、「戻れない楔」というのもあって、今から仕事を辞めて実家に戻れば片道切符になってしまうでしょうし、そのエゴのために離婚したり、子供を捨てるわけにもいかないので結婚という世界線は選べませんでした。
試すことに失敗はないが、変えることは難しい
『仕事は楽しいかね?』には続きがあって、「覚えておいてくれ。”試すことは簡単だが、変えることは難しい”ということを。」というフェイズもあります。若者の働き方論を紐解くと「戻れる事」を重視しています。
リーンスタートアップやアジャイルは初期投資を抑えたり、計画が変わることを前提とするわけですし、「複業」も個々の事業についての切断余地をあらかじめ作っておくためのものです。『[asin:477415976X:title]』にある「プライベートプロジェクト」も同じ方向性です。
しかしながら、借金したり投資を受けて事業を開始すれば、そう簡単にクローズすることはできません。それは不自由である反面、ちょっとしたことではやめられないという強度にもなっています。試してみることには失敗はありませんが、だからこそ元に戻せてしまうというジレンマがあります。
結婚の倫理
このことについて、自分としては保留している部分がいくつかあって、自身の「お金あまり・時間不足」という状態は、単身者かつ最低限度の生活をするのが好きだからこそ維持していることです。これを妻や、ましてや子供に強制することなんてできません。
その一方で「働きたくないでござる!」は精神的な要因も大きいので、妻や子供の顔をみればやる気も出るでしょうし、家族のために頑張るのが当たり前だと思う事もできるのではないかという期待もあります。恋人がいた頃には仕事を辞めようなんて考えつきもしませんでした。「君がいれば張り切っちゃう、やり切っちゃう♪」って部分はどうしたってあります。
Country Musume - Koibito wa Kokoro no Ouendan ...
そんななか id:luvlife さんの『正しいえっち - ひきこもり女子いろいろえっち』という考え方もあるのだと知りました。
ダリさんの幸せに共感できる人は、ダリさんの幸せが自分の幸せとおなじ、って思うからだろーけど、その幸せが幸せでない人もいる。
私、ダリさんにどんな残酷なことしてますか。
ダリさんの望む幸せにこたえない女は、残酷ですか。
私はダリさんの人生まで負えない。
なんで恋愛とかえっちいな関係になると、相手に自分の人生負わせたがるの?
10年も20年もつきあって、結婚適齢期とかっていうのとっくにすぎて、それでも「別れないけど結婚はしたくない」っていう煮え切らない態度をとった中年同士なら、自分が損したっていう気分ももりあがるんだろーし、その損を相手のせいにしたくなるのかもしれない。
一時期は『奇刊クリルタイ7.0』や、その前段階の話もあって「婚活」というものを「試してみて」絶望したのですが、それは「高望みするな」なんて言われながらインスタントに結婚しても、「君がいれば張り切っちゃう」の強度が十分に保てないという構造的欠陥から来るものです。お互いに「妥協」する必要があるなんて、失礼過ぎる。
自分が相手の人生を背負うだけじゃなく、相手に自分の人生を背負わせて「引き返せない楔」を打ち込んでしまうなんて、当時はお試し感覚だったとしても、なにかとんでもない事を目指していたのではないかと反省してます。もちろん、だからえっちだけという話ではないですし、自然な出会いで好きになって結婚するのも良いと思います。婚活だって出会いのきっかけであって、そこから好きになることもありえるのだとは思います。
何を選択しても引き返せない楔は打ち込まれ続ける
しかし、選択をしない選択というのも立派な選択であり、日々日々「引き返せない楔」が緩慢に打ち込まれていきます。31にもなってくると転職先は限られてきますし、35歳、40歳となるにつれてもっと絞られるでしょう。人にはほとんど無限の可能性がありますが、無限ではないのですし、余命に応じて確率収束していきます。
だから、最近は僕は、他人に喜んでもらえることをもっと大事にしたいと思っている。
そして、それは偽善でも、カルト宗教でもなく、自分自身の幸せな死に方を願うあまりの究極の自己中心的なふるまいであることも、明らかにしておきたい。
だからこそ、「他人に喜んでもらえること」を人生におけるKGIに設定するのも良いのでしょう。経済学には「方法論的個人主義」という考え方があって、すべての社会構造やその変化を、個人の意思決定の集積として説明し理解するわけですが、その時に「他者の幸せ」を願う気持ちは「個人」に織り込まれて行動決定されるとあります。
個人主義であろうが、共同体主義であろうがエゴであることには変わりありません。だからこそ私の場合は「絶対にこうするんだ」っていう指針を決めず、時々は他者の事を優先するし、時々は自分の事を優先したいと思います。試す事は簡単ですが、変える事は難しい僕は、それでも「試す」という偽善の範囲においてのみ他者の幸せを願い、行動したいと思うのです。