読んでいない本について堂々と語る方法
本は読んでいなくてもコメントできる。いや、むしろ読んでいないほうがいいくらいだ――大胆不敵なテーゼをひっさげて、フランス文壇の鬼才が放つ世界的ベストセラー。ヴァレリー、エーコ、漱石など、古今東西の名作から読書をめぐるシーンをとりあげ、知識人たちがいかに鮮やかに「読んだふり」をやってのけたかを例証。テクストの細部にひきずられて自分を見失うことなく、その書物の位置づけを大づかみに捉える力こそ、「教養」の正体なのだ。そのコツさえ押さえれば、とっさのコメントも、レポートや小論文も、もう怖くない!すべての読書家必携の快著。
以前の書評で『映画を早送りで観る人たち』(流)を取り上げたが、実は「早送り」なんてのはまだ誠実で、読んでいない本について堂々と語ることが横行している。僕自身もクリシェの原典を読まず多用していたことがあるし、流し読みでチェリーピッキングをしているのもしょっちゅうだ。
ブログに長文感想を書いているのに2回目に読むと初めて読んだ章が足されているかのように感じてしまうことすらある。時間も体力も有限なので仕方がないが、それでも感じる後ろめたさについて、読書にまつわる「偽善的規範」として以下の三つが挙げられている。
- 読書義務
- 通読義務
- 本について語ることに関する規範
すなわち読書は神聖な行為であり、全てを隈なく読む必要があり、ある本について語るのであれば通読は必須であるという観念だ。しかしながら、ある本について語るために本を読んでおく必要はないし、何なら読んでいない方が雄弁かつ意義深く語れることすらあるというのが本書の主張である。著者は文学を巡るパラドックスについての書物を多く出版している精神分析家。「読んでいない本を語る」というテーゼも実にパラドックス的だ。