太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

岡田斗司夫の『「いいひと」戦略』は「イヤなひと全損社会」の背反を考えれば分かりやすい

超情報化社会におけるサバイバル術 「いいひと」戦略 増補改訂版

「いいひと」の定義

もし「表層的な偽善者」が「いい人」だと評価されるのが「評価経済社会」だとしたら、そんなうさん臭い未来は心配しなくてもやって来ないので大丈夫です。なぜなら何度もいうように、「いい人」を“演じて”もバレるから。上っ面だけ整えたら、そのまま「上っ面が整った人だな」というのが伝わるだけ、それが真の「総透明化社会」です。

でも、私が勝手に思い込んでいたほうの「いい人」が評価される「評価経済社会」だったら、そっちの未来は近いうちにやってくるんじゃないかなーと個人的には思っています。

みなさんの「いい人」の定義、ぜひぜひ聞かせて欲しいところです。

 読みましたー。id:skky17 さんの『「いいひと」が得をする社会になってきたのか? - しっきーのブログ』と佐々木俊尚の『自分でつくるセーフティネット~生存戦略としてのIT入門~』を下敷きに「いいひと」の定義を考えて、「寛容である人」「他人に与える人」「本音を隠さない人」を一例として挙げています。

 これはこれで納得できます。でも、評価をするのはあくまで個々の他者であって「ぼくの考えたいいひと」をいくら実現しようとしても、周りはしんどくなってしまうし、そもそも「いいひと」と思われる事は手段であってゴールではありません。全員が同じリテラシーや信念を持つ事は今後共ありえないわけで、偽善戦略が有効な集団もあるのではないかと思うのです。

 むしろ「イヤなひと」と思われにくい行動を積み重ねることで、結果として疎外されにくくなるのが実態なのではないでしょうか。「評価経済社会」は一部のスターを除いた殆んどの人にとって「いいひと」が得をするのではなく、「イヤなひと」が全損しやすいディストピアであり、それは既に浸透しかけています。

「イヤなひと」の定義

 「イヤなひと」を定義するのに「具体的な行動」を挙げる必要はありません。一定以上の「こいつムカつく」という感情を一定数以上のステークホルダーが抱けば「イヤなひと」です。偽善的な振る舞いをしてても、キラキラしてても、嫌味ったらしくてもトリヴィアルとなります。「こいつはムカつくから次の仕事は頼まない」といった疎外行動において、評価者の主観を排せというのは無理筋ですし、ましてや恋愛や友情においては主観しかありません。

 人には認知スキーマがあって、一度スキーマが崩れると好意であれ、嫌悪であれスパイラルに高まっていくのが性質ですが、ここ20年ほどでコミュニティの流動性が高まった事もあって「いちいち相手の立場を理解しようと考えるよりも切断して新しい人を探した方が良い」という言説も強まっており、これは結果として岡田斗司夫の提唱した「自分の気持ち至上主義」の浸透でもあります。コモンカードを育てるより、次のガチャでレアを当てようって話です。

 流動性が高まった中で「じぶん」「いま」「ここ」が効用関数内で重視されていくほどに「ちょっと能力が高いけどイヤなひと」に我慢するのはバランスしないので、疎外されていくことになります。だから「イヤなひと」と思われる局面を減らす事が重要になってくるわけで、「イヤなひとになる努力」をやめる事が「いいひと」になる近道となると考えられます。岡田斗司夫は以下の内容を「イヤなひとになる努力」として挙げています。

  • 欠点を探す
  • 改善点を見つけて提案する
  • 陰で言う
  • 悪口で盛り上がる
  • 悲観的・否定的になる
  • 面白い人、頭の良い人、気の合う人だけで集まる

武器不均衡是正の原則

 どれもこれも僕の性質なので「いいひと」でいるのは難しいと改めて思うのはおいといて、これらの行動には「Aさんは人の欠点を探してるから、我々はAさんの欠点を探しても良い」といった「武器不均衡是正の原則」があります。正当防衛には「武器対等の原則」が要件に含まれるわけですが、これは「同じ武器を使う限りは正当防衛である」という転回が起こりえます。例えば「私は人を批判したいが、私は人から批判されたくない」というのは難しいわけです。

 ここで重要なのは、「私」と「我々」の数の違いです。相手よりも強い武器や卑怯な武器をつかってオーバーキルをすると、相手側にそれを超えない範囲の武器を使う正当性が与えられ、かつ同調する人数が多くなります。急所を的確に狙いやすいネット社会においては「ランチェスターの第二法則」が成立し、武器性能の不均衡が是正されると兵員数の自乗で戦力差が生まれるので、よほどの能力がなければ、殆んど勝てないスキームに巻き込まれやすくなるし、消耗し続ける事になります。

 そもそも特定の局面で「勝った」ところで褒賞がもらえるわけなくて、余計に疎外されやすくなるだけです。つまり「いいひと」が得をするのは特殊ケースで、むしろ「イヤなひと」が全損する社会にインターネットは近付いているので、それを避けようという話のが一般の人にとっては重要です。

インターネットは階級を固定化する装置

 それは、東浩紀が『弱いつながり 検索ワードを探す旅』で言う「インターネットは階級を固定化する装置」を加速する側面もあります。「いちいちネガティブな事は指摘しない方が損がない」という社会においては、ネガティブな感情を抱いた原因が認知されないまま放置されがちです。

 特にインターネット上においては自身にとって居心地の良いコミュニケーションや情報収集のための調整がしやすいという側面がある。RSSSNSにはお気に入りの人ばかりを登録してあるし、GoogleAmazonはこれまで行動履歴からレコメンドしてくるし、不愉快な人や言葉はスパブロミュートして視界に入らないように出来る。ネットはむしろ「閉じこもる」ための道具になってしまった。

 それは「今の自分」にとっては心地よいけれど「自分を変える」という必然性が生まれにくいという事でもあって、結果として自身の「階級」を固定化してしまう。例えば僕が二十歳の頃に「悟った」事なんて十年経った後には恥ずかしい事ばかりなのだけど、それは成長の証でもある。だけどインターネットを使いこなすほどに、自分にとって都合のよい言葉ばかりを取り出して、そのまま齢を重ねることが出来てしまう。そこでの「成長」があるとしても自身のおかれた環境により適応していくためのステップに過ぎない場合が多い。

 もちろん「ありのままで〜♫」というのも、ひとつの戦略ですが、他者はそれを言う言わないに関わらず冷静にフォルダ分けをしており、ヒントすら与えられずに実質疎外される状態が続くのとどちらが良いのかという話はあります。以前に書いた書評では『相互レビュー社会を生き抜く倫理経済学〜岡田斗司夫『「いいひと」戦略』 - 太陽がまぶしかったから』というタイトルにしたのですが、「人に何かを求めれば、自分がそれに足るかどうかを見られる」のは武器不均衡是正の原則からも成立します。

無言の実質疎外とニュータイプ

 しかし「発言の資格」を問うほどに、実態的なネガティブ要素や実質疎外に歯止めが効きにくくもなるわけで、それこそディストピアだよと思ったりもします。静かに離れられればよいのかもしれないけど、お金や能力や恐怖などの「別の権力」によって無言の我慢を強いていた事を修復不能な状態になってから知るのは個人的にはもっともつらいのです。「死ぬまでに認知しなければ存在しないと同じ」ってのもひとつの見かたではあるのですが。

 そんなわけで、「イヤなひと」でいると損する社会において、殆んどの人にとっては「イヤなひと」と思われない事が重要であって、「イヤなひと」でなければ相対的に「いいひと」としての利得が得られるだろうと考えたのですが、全員が消極戦略を取るのも、またディストピアであり、何が大事なのかを暗黙的に分かれというのもニュータイプ待望論なのではないかとも思うのです。過去に内心当てクイズゲームによって親密度を測る人がいましたが、それに付き合わされる側は消耗しますし「イヤなひと」だと個人的には見てしまう所があります。

「人と向き合って、キズつこう、キズつけよう」への憧れ

「厳しい言葉も、自分が責任取れるなら相手に言える。ましてや、耳あたりのいい言葉ならだれでも言える。でも本当にその人と正面からつきあうなら、つらくても逃げちゃいけないことがあるんだ。そのことで自分じゃなく相手が苦労したり傷ついたりするとしても、無責任だと言われても…」
「すごく勇気がいるけど、人と向き合って、キズつこう、キズつけよう。そうして私達はいつか…本当に人に優しくなろう」

 これは岡田斗司夫の言う「いいひと」とも、佐々木俊尚に言う「いいひと」とも違うのだけど、そういう関係性を望みながらも、一方では諦めている自分を意識することにもなりました。どんなに立派な主義を持っていたとしても、コミュニケーションが成立していないのにも関わらず、なんらかの権力によって黙らせて一方的にコミュニケーションが成立したと思い込むのが「ハラスメント」です。どちらか一方が勝手に『ドメスティック・モヒカン宣言 - 太陽がまぶしかったから』をしようが、内心当てクイズゲームをしてようが、ニコニコしてようが、論理的に正しかろうが、互いの評価軸に敏感にならない限りは、その人にとっては「イヤなひと」なのです。

 みんなに好かれるように振る舞っても、みんなに嫌われるし、みんなに嫌われるように振舞っても、みんなに嫌われます。だから、僕や世間が思うであろう「いいひと」を厳密に定義してブラッシュアップを試みたり、人に課したりするよりも、あなたが思う「いいひと」「イヤなひと」を知って個別に対応したいとは思うです。でも、だからこそ最適化のための感情労働を続けるような関係も長くは続かないわけで、互いに少しづつ歩み寄ってみることも必要なんじゃないかなという一方で、「要は『嫌われる勇気』がないんでしょ」になってしまっているのかもと思いました。