太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

もうニートにすらなれない確率収束とギークハウスのノンフィクション

NEET

ザ・ノンフィクションを観た

 フジテレビの『ザ・ノンフィクション』でギークハウス界隈のドキュメントをみた。登場人物の一部とは何回か顔を合わせたことはあるけど、モブキャラでしかない僕は相手から認知されていない程度の距離感であろう。文学フリマや早稲田あかねなどの記憶はあるが、ギークハウスそのものに足を踏み込んだことはない。

 相変わらずな感じだけど労働をはじめた pha さんがいて『めしにしましょう』が軌道にのって元ファンと結婚した小林銅蟲さんがいてという構図。ソーシャル!という掛け声や「コスプレで社会人やってますけど」をメタに織り込みつつも、生活はフィクションではない。

内輪コミュニケーション能力のトラウマ

 社会性の獲得をテーマをしつつも結婚パーティーでほっとかれた新婦が所在なさげになってしまうのにトラウマを刺激される。大人数のオフ会は苦手だ。手垢の付いた指摘ではあるが、シェアハウスで暮らしていくにはコミュニケーション能力や家事能力が要求されるし、空気も読める必要がある。

 詐欺自撮りを「顔出し」とは言わないし、会社名の権威を都合よく使いながら「個人の意見」を強調する卑怯さを考えると、彼らのほうが躊躇がない。だが、それゆえにインターネット深海魚たる自分にはついていけなかったと思い起こす。

もうニートにすらなれない確率収束

 ところで、日本におけるニートの定義は「十五歳から三十四歳までの、家事・通学・就業をせず、職業訓練も受けていない者」であるから、この定義からすると35歳の僕はもうニートにすらなれない。登場人物の殆どもそうだ。

 本棚一角の中身を頭の中に入れて何かしらのアウトプットをしてればライフワークを見つけられたのかもしれないし、少しぐらいは足跡を残せたのかもしれない。基本的に厨二病なので、本気を出せばそれなりの結果を出せる自信があったし、その妄想を深められる程度のフィードバックもほんの少しはある。

 それでも「生活といううすのろ」を受け入れる度に「何も出来ない人」に確率収束していったのが実情である。本棚を空にしていくと、その時は広がっているように感じた可能性の束を捨てていってしまうような錯覚に陥る。脇役や裏方や観客どころか、その劇に何も寄与できず、終わった芝居の名シーンをまとめサイトで不完全に眺めているだけだったねと。

 ギークハウスのような生き方に憧憬のようなものを感じつつも、労働をして独りの部屋に帰ってくる生活を続けていたら、ニートへの可能性まで確率収束していた。結局のところで脇役や裏方や観客どころか、その劇に何も寄与できず、終わった芝居の名シーンをまとめサイトで不完全に眺めている生活。それもまたノンフィクションなのだろう。