太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

エイチズ・バーで犬人と非効率なダンスを踊る

エイチズ・バー

 エイチズ・バーに犬人(id:inujin)さんが来るという話を聞いたとき、そこに行くべきかは少し迷っていた。直接話したいという思いはずっとあったのだけど、ある意味では「終末」の予感もあった。

 『感想をブログで書いてもらえると喜びます - はてなブログ グループ』でのやりとりが始まってから丁度、半年になる。この取り組みについて「現在も成功しているか?」という問いかけについては「NO」といわざるを得ないだろう。

 当初の理念が塗りつぶされたり、勘違いされたり、馬鹿にされたり、一人歩きするなんて事はよくあることだし、別に悪い事だとも思っちゃいない。例え1ヶ月間でも楽しかったのであれば終わりを意識して何もしないよりはいくぶんかはマシであったと評価している。

歴史は殆んど形を変えずに繰り返す

 歴史は殆んど形を変えずに繰り返す。それでも演じる人間が違えば、当人にとっては初めての経験であるし、指の角度が違っていればまた別の話になる。例えば恋愛はどれだけ凡庸なコラージュで出来上がっていようが、だからこそ当人達にとっては重要になるし、むしろ凡庸さを欠いた体験など誰が求めているのだろうか。

 そうは言っても、これで当事者としての一巡が終わってしまう感覚もある。「当初の目的」はとっくに達成していたし、付随的な事も大体できた。そうなると「終わりなき日常の退屈な繰り返し」が始まってしまうし、仮に椅子のようなものがあれば他の人に回すべきだろうと考えてもいた。

完璧な無為など存在しない

 雪の中を歩きまわって辿り着いたエイチズバーには観客も立会人もいなかった。アントニオ猪木マサ斉藤が巌流島で決戦したときのようにサシで向かい合う。第三者にとってはどうでも良いことだろうし、「個人的な体験」を邪魔されたくもなかった。俯瞰すれば中年男性二人が呑みながら話しているにすぎず、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も繰り返された光景であろう。

 僕が過去に通いつめたエイチズ・バーでは100万文字以上タイプし、100万回以上参照された結果として僅かな仕事とお金と愛を得た。変換効率が非常に悪いなんて事は最初から分かっていたけれど、完全に「ゼロ」とは言い切れないし、少なくとも、「この機会」がもたらされる程度の変換率はあったということだ。完璧な無為など存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

 僕はある部分においては非効率であることこそを好む。たかだか5%の賭金はゼロになろうが30倍になろうが本質的にはどうでも良い。そこで動く感情の流れのみが重要だ。最初から最後まで意味なんて殆んどないのだから、何かが動いている事が重要なのだ。「第三の場所」はその非効率な非効率な変換率にこそ意味がある。

リアルへのコンバージョン

 何度も書いている通り、僕自身はネット上のコミュニケーションが成立したことそのものにはあまり嬉しさを感じていない。リアルへのコンバージョンに成功したものを重要視している。ここで言う「リアル」とは「実行動」ということである。プロフィール文が「仕事か、お金か、愛を下さい」なのも最初からそこを指向しているという宣言であった。

 言葉を尽くさないと伝わらない人に分かってもらおうと努力するのは、それこそ仕事や友人や恋人などの利害関係者で手一杯なところがある。僕はゲマインシャフト的世界観においてこそ明白な差別主義者であって、誰もと無理に仲良くしたり、攻撃する必要性を感じない。大抵の人や出来事にはデタッチメントである。

 そんな事を言うなら最初からバーにでも行った方が早いのだろうし、それこそ婚活パーティーだって悪くはないのだろう。非効率であるからこそ楽しい。10人の友達を得るために1万人に読まれるプレゼンテーションをするのも悪くもないと思っている。吹雪の中を歩きまわったように。

非効率なダンス

 当初は「3ヶ月限定で運営しよう」と決めていて、そこから先については緩やかにフェードアウトさせるつもりであった。「隠居」というアングルがそれだ。なのに「フェードアウトの過程」における過剰の美学が面白くなってしまってズルズルと続けている。

 僕自身はエクストリームに煮詰まって壊れかけているぐらいでないと満足できないという味覚障害者である。綺麗な文章が読みたければ相応の本を読むし、ちゃんとした文章はお仕事として書いている。青空文庫なりブックオフなりがあるのに「本の代替としてブログを読む」なんて事はあまり想定できないわけで、もっとドロドロしたものを書いたり、読んだりしたい。

 「せっかく語ろうとしはじめたサバルタンの言葉を摘んでしまう」などという事は半分タテマエであって、そもそも僕はそういうものを読みたい。僕らは限定合理性の中で自身のパラダイムにおける効率性を信じているに過ぎない。

 終末の予感は吹雪が止んだ夜明けとともにただの週末に変わる。やっぱり僕は辞めるのを辞めてしまうのだろう。ズルズルと低空飛行をしながら晩節を汚す。それでも時々はうまく飛べるかもしれないし、飛べなきゃいけなかった時よりも楽しみではある。僕は結局のところで無様で非効率なダンスが好きなのだろう。