太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

アラサー男子が上野千鶴子『男おひとりさま道』を読んで考えてみた

男おひとりさま道 (文春文庫)

おひとりさまとアラサーと男と女

 チェコ好きさん( id:aniram-czech )が、『アラサー♀が『おひとりさまの老後』を読んで考えてみた。 - チェコ好きの日記』というエントリーを書いていて、自分もちょうど『男おひとりさま道 (文春文庫)』を読んでいたので、その事について書こうと思いました。

現在26歳の私ですが、上野千鶴子さんの『おひとりさまの老後』という本を読んでみました。



なぜこの本を手に取ったのかというと、「働き方」とかについて考えすぎるあまり、先行して話が「老後」と「死」にまでいってしまったとでもいいましょうか、「終わり」から「今」を考えてみるのはどうだろうと思ったとでもいいましょうか……。

 同じく最終的にはどう死んでいくかという事を踏まえたライフデザインが必要なのだろうと考えています。このまま深夜に仕事で呼び出されたり、休日のうちになんとかしなきゃみたいな事を続けていても人間関係や心身はボロボロですし、何も残らないまま放り出される事が目に見えています。

 基本的に孤独死そのものは怖くないし、結婚したところで根治にはならないと思うけど、自分の欲望のためだけに生きるのも下手だから、「わたし、気になります!」と願望や好奇心をアウトソースしてくれる存在が必要なのだろうという話をする事がありました。評価経済ならぬ氷菓経済です。

男おひとりさま

 そもそも男性と女性には平均寿命の差があり、男側がある程度年上の状態で結婚することが多かった事もあり、「男おひとりさま」はマイノリティというイメージが強い時代が続きました。「男やもめにウジがわく」なんて侮蔑が産まれるのもそういった背景があります。しかし、本書によれば2010年時点で65歳以上の男性単身者は139万人と、女性の341万人較べて決してマイノリティとは言い切えないほどの人数になってきました。現在の生涯未婚率や離婚率の増加などを考えると増える一方でしょう。

 これまでの結婚は男の「不便」と女の「不安」との結びつきでしたが、女性側に経済的不安がなくなれば、再婚する理由も少なくなると本書は指摘します。婚活の現場では、それこそ介護要員募集としか思えないような条件付けを見る事にもなりますが、そんな話に乗る人も少なく、ある程度の年齢でおひとりさまとなった男性は、そのまま継続することになると本書では指摘します。

おひとりさまへのなりかた

 おひとりさまのなり方には「死別シングル」「離別シングル」「非婚シングル」があります。もともとはお見合い結婚などで非婚を回避し、年齢や寿命の差から死別になる事は少なく、不満はあれど離別にまで至る可能性は少ないという状況がありました。しかし、この状況が変わってきているのにも関わらず、依然として男側に「おひとりさま」になる覚悟がある人は少ないと本書は指摘します。「ある日、ぼっくり、がボクの理想ですね」なんて事をいい年になっても夢見続けています。

 私自身の事を言えば、非婚シングル待ったなしだと思われます。2012年の人口統計資料集によると男性の生涯未婚率は20.14%であり、これはまだまだ結婚が当たり前だった時代を含んだ数字であるため、15年ほど経つと35%ぐらいまで増えるのではないかと言われています。まぁ制度上の結婚は出来るかもしれないけど、経済状況や趣味の問題からして子供は難しいだろうし、そうなると離別リスクが高いままなのだろうと醒めているところもあります。

 もっとも、それすら幻想であり、夫側が過剰労働や接待などに拘束される事を前提とした世帯は徐々に母子家庭同様の関係性になっていき、また妻方親権になる割合のが多くなったため、慰謝料や養育費や財産分与などに目処が付けばそうそうに離婚してしまった方が得という割り切りが働きやすい状況が揃っているとの事です。最初から、そんな悲観的になるのもオカシイ話ですけれど。

仕事との「付き合い」は一定期間で終わる

 仕事を中心に考えていくと、ある意味では楽なのですがいつかは定年や退職を迎えます。最近もトラブル対応をしていましたが、既に身体が追いついていかない感覚があります。炎上している時はプライベートも拘束されて、他の約束なんて全部飛んでしまうのに、それが収束していくと徐々に要らない子扱いされはじめて沈み込みます。約束を破ってしまった女子からも音信不通になるし。

 そんな事を続けているうちに孤独化していったわけですが、「仕事が恋人」なんて戯言は、いつまでも続くものじゃありません。今の仕事とも離婚協議中をしたいところです。なので仕事との「離別シングル」ってのもあるのだろうと思いました。生涯現役っていうスタンスも良いのかもしれませんが、私には無理です。むしろ早く引退したいにゃん。

家事は出来てしまう

 本書においては「男は家事もろくに出来ないままシングルになってるから云々」ってのが多いのですが、家事はむしろ好きです。男だって誰もいない家で自分のために"主夫してる"わけです。好きなのに忙しくて手抜きになくなっていくギャップに嫌な思いをしているわけですが、現在は色々な家電、外食、サービスなどがあるし、そこの必然性も低くなりました。これは別に最近の傾向ではなく、「単身赴任」があった昔だって行われていたことです。

 じゃあ、それが結婚後に役立つかというと微妙です。あくまで自分で食べるからとか、自分で過ごすことだからOKと目をつぶっている部分は多々あって、その偏りのコンフリクトはあるのだろうと思います。互いに得意不得意を埋め合わせれば理想的なのですが。

介護問題と老害問題

 妻が要介護状態になった場合、夫はプロジェクトマネジメントの要領で的確に介護という仕事をこなす事が多いと言われています。しかし、これは「介護者主導型介護」に変容する事が多く、「介護される妻の感情」が無視される事になる場合が多いと本書は指摘します。

 これは、『「老害の本質」は正しいフィードバックを受けられないまま固定観念を強めて他者に「呪い」をかけること - 太陽がまぶしかったから』を思い出しました。「自分のベストプラクティス」を相手の状態や反応を見ずに推し進めてしまう事があって、それをされた側は凄く迷惑でありながらも、言い出しにくい状態になってしまいます。言い出されないから喜んでると思ってさらに進めてしまうスパイラルです。自称「家事や子育てが出来る」の痛々しさもそこにあります。

覚悟と物理

 『「絶対孤独のなかで死ぬ」覚悟があるか? - ICHIROYAのブログ』では「絶対孤独のなかで死ぬ覚悟」という言葉がでてきます。正直Xさんの言いたいこととやってる事の相関はよくわかりません。ただ本文にもある通り、その覚悟をしたところで認知症になった時にまで他者に迷惑をかけないまま死ぬなんて事はできないのだろうとも思います。

 いくらひとりで生きていく覚悟を決めても、認知症になってしまったら、自分の意志は霧消してしまい、誰かのお世話になるようになってしまう。
 そして、認知症にならなければよいかというと、そうでもない。
 自立の意志は硬く硬く凝り固まっているものの、加齢に伴う判断力の低下がすすむとどうなるか。
 人の助けを拒絶して、あげく、家をゴミ屋敷にしてしまったり、火事を出して周囲に迷惑をかけたりする危険がある。

 そうでなくても、心身への負担を大きい生き方をしていくうちに自律神経失調症などになってしまっているので、どこかで大きな病気を発症してしまうリスクは前提として受け入れる必要があります。死んでいく過程をいかにマシにしていくかという話になっていくのでしょう。コミットメントしたことは何が何でも達成してきたつもりですが、そろそろ出来ない事は出来ないって認めなければいけないのだろうとも思っています。それがかつて出来た事であってもです。本書にもある通り、「下り坂の自分」に対して優しく接するべきなのだろうと思います。

ストック型の人間関係からフロー型の人間関係へ

今後大切になるのは、「頼りになる家族が(地球上のどこかに)いる」というストック型の人的ネットワークではなく、高齢になってからでも近隣や趣味の仲間、もしくはネット上で知り合った人たちと新たな関係性を作っていくというフローの人的ネットワークの形成能力です。過去に築いた人的遺産の質と量ではなく、何歳になっても新たな人間関係を構築していく能力が問われる時代となるのです。

この文章は『おひとりさまの老後』ではなく、ちきりんさんの『未来の働き方を考えよう』からの引用なのですが、きっとお二方は同じことをいっているのだな、と私は思いました。「友だち」だって年をとれば減っていきますが、「友だち」は家族とちがい、新たに構築することがいくらでも可能なのです。自分が、新たに「友だち」を作るだけの人的ネットワークや、「付き合いやすさ」を持っている人間であれば。

 この事については実感しています。既に大学時代の友人とも疎遠になることが多いですし、会社の同期ともバラバラです。合コンで仲良くなったはずの女子とはいつの間にか連絡が途絶え、ネット上の友人も時間とともに入れ替わっていきます。「離別シングル」「死別シングル」は妻との関係性だけではないのでしょう。

 なのでオンリー・ユー、フォーエバーの時代でもないのだろうと思います。それが良い事なのかはまた諸説あるのでしょうが、自己愛の貯蓄ができない以上フローを生み出しやすいような仕組みを考えておく必要はあるのだろうと思います。

生まれ変わること

あるいは、ゴミなどの「リユース」とか「リサイクル」もそうだ。


僕らが色んなものを消費し尽くして、不要なゴミとなったものが、リサイクル処理によってまるでみんな新しい生命を得るような表現をよく見るけれど、そんなはずがない。


しかし、消費というものがいかに取り返しのつかない行為なのかという議論には、まずならない。



僕らは「死は恐ろしい」ということを信じすぎるあまりに、イノベーションなりリサイクルなり、「生まれ変わる」という寓話をすんなりと受け入れてしまうのだ。

 私自身は『ちきりんに「人生は二回生きられる」と言われると、一回死んだ後の無敵時間を活用したくなる - 太陽がまぶしかったから』なんて事を書いている通り、「1機は死ねる」と思っているところがあります。なのでまずは1回目の死亡をどうしようかというデザインを考えています。それならSFじゃないでしょう。

 しかし、この1回目の死亡は2回目の生を有利に進められなければ意味がありません。「2機目はグラディウス4面途中の復活なみに難しい」とブコメにも書かれたのですが、じゃあ「↑↑↓↓←→←→BA」とかないのかなーって思ってしまうところもあります。でも、そんなものはないからこそ、なかなか決心もつかないし、妥協の連続なのでしょう。

 ただこの「妥協」だって、本当の優先順位が分かるのであれば捨てたものではありません。見た目上の「緊急」に自分の欲望を塗りつぶされててきたからこそ、自分が大切にしているパラダイムを再度検討していきたいと思うのです。せめて、この世界に感謝をしながら死んでいきたいから。